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2020年11月6日(金)
ヤコブの手紙 3:9-15 9私たちは、舌をもって、主であり父である方をほめたたえ、同じ舌をもって、神にかたどって造られた人をのろいます。10賛美とのろいが同じ口から出て来るのです。私の兄弟たち。このようなことは、あってはなりません。11泉が甘い水と苦い水を同じ穴からわき上がらせるというようなことがあるでしょうか。12私の兄弟たち。いちじくの木がオリーブの実をならせたり、ぶどうの木がいちじくの実をならせたりするようなことは、できることでしょうか。塩水が甘い水を出すこともできないことです。13あなたがたのうちで、知恵のある、賢い人はだれでしょうか。その人は、その知恵にふさわしい柔和な行ないを、良い生き方によって示しなさい。14しかし、もしあなたがたの心の中に、苦いねたみと敵対心があるならば、誇ってはいけません。真理に逆らって偽ることになります。15そのような知恵は、上から来たものではなく、地に属し、肉に属し、悪霊に属するものです。
【ポイント】 ①自己矛盾に気づく ヤコブが見聞きしている教会の中の問題点はそれほど複雑なものではありません。それは、深い神学的、哲学的な議論などではなく、教会内の不和です。9-10節を見てみましょう。「9私たちは、舌をもって、主であり父である方をほめたたえ、同じ舌をもって、神にかたどって造られた人をのろいます。10賛美とのろいが同じ口から出て来るのです。私の兄弟たち。このようなことは、あってはなりません。」ヤコブは、問題とされているクリスチャンたちの内面の矛盾が分かりやすく説明しています。それらの人々は「主であり父である方をほめたたえ」ていることが分かります。つまり、非常に熱心に、賛美歌を歌ったり、聖書を朗読したり、教えたりしていたのです。しかし、一見すると大変信仰熱心に見える人々が、「同じ舌をもって、神にかたどって造られた人をのろう」というような、信仰の告白と実際の生き方が完全に矛盾していることが横行していたと言うことです。
実は、このような自己矛盾はこの世では当たり前のこととなっています。教師は生徒にいじめをしないように厳しく教えますが、職員室ではいじめが横行していたり、学校内でのいじめが起きていることについて教師を責めているPTAの役員が教師をいじめているような状態になっていたり、PTAの役員の中でいじめがあったりと、例えば学校を取り巻く人間関係だけをみても、「言っていること」と「やっていること」の矛盾が常態化しているケースが少なくないのです。
私たちクリスチャンは、このような「この世の当たり前」をイエス様のために、絶対に教会の中に持ち込まないという決意が必要なのです。そのためには、愛、赦し、忍耐を十二分に働かせる必要がありますし、それは「試練」と感じるほど大変な作業なのです。しかし、私たちはイエス様の十字架を見る時に、歯を食いしばり、主にある兄弟を愛し、赦し、忍び合うことが可能になるのです。この苦難と努力こそが「信仰の歩み」であり、その結晶が「キリストのからだ」(教会)であり、主にある「夫婦」「親子」「兄弟」(家庭)なのです。
あなたは、教会形成、夫婦関係、親子関係の構築のために、自分のエネルギー(思い)、時間の何パーセントを費やしていますか?自分の仕事や趣味のほうにより多くのエネルギーと時間を費やし、余った時間で神様を愛すること、隣人を愛することに取り組んでいるような状態に陥っていることはありませんか。ヤコブが指摘しているような「他の教会員をのろう」ようなことをしていないとしても、教会や家庭を大切にすることに全力で取り組んでいなければ、それは信仰の自己矛盾であることに気が付かなければならないのです。
イエス様の十字架での苦難(愛)を喜んで受け取りながら、自分が愛するべき者を愛することに苦難を覚えていないクリスチャンの信仰は「良いとこどり」で「空しいもの」になってしまうことを忘れてはならないのです。
ライフチャーチ 大谷信道