デイリーディボーション 11月8日(木)

誰でも気軽に集える、明るく、カジュアルな雰囲気の教会です。

デイリーディボーション 11月8日(木)

2018年11月8日(木)

コリント人への手紙 第2 4:5-7
5私たちは自分自身を宣べ伝えるのではなく、主なるキリスト・イエスを宣べ伝えます。私たち自身は、イエスのために、あなたがたに仕えるしもべなのです。6「光が、やみの中から輝き出よ」と言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです。7私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。

【ポイント】
①福音の中心はキリスト
この世の人は「偉い人」からありがたい話を聞くのが好きです。「どうせ同じ講演や講義を聞くのであれば、より有名な人から話を聞きたい」という願望があることは自然なことです。しかし、それが行き過ぎると、講演の内容ではなく有名な演者に会えたことを喜ぶようになってしまうこともあるでしょう。残念ながらキリスト教の世界でも同じ傾向を見ることができます。しかもそれは、パウロの時代からあったのです。

実際、コリントの教会でどのような現象が起きていたのかを思い出しましょう。「11実はあなたがたのことをクロエの家の者から知らされました。兄弟たち。あなたがたの間には争いがあるそうで、12あなたがたはめいめいに、『私はパウロにつく』『私はアポロに』『私はケパに』『私はキリストにつく』と言っているということです。13キリストが分割されたのですか。あなたがたのために十字架につけられたのはパウロでしょうか。あなたがたがバプテスマを受けたのはパウロの名によるのでしょうか。」(1コリント1章)

ですから、パウロはキリストの福音を伝える「媒体」である自分は単なる「土の器」であると宣言しているのです。確かに、イエス・キリストの福音を伝えている使徒、伝道者は、その権威を神様から与えられているわけですが、だからといって「高貴な器」のような偉い者ではないのです。素晴らしいのは器の中の福音であって、その器自体は粗末な土の器のようなものなのです。ですから、福音を語る者は、自分が土の器にすぎない者と自覚し「自分自身」を宣伝するようなことをしてはならないと注意を与えているのです。さらに、福音を聞く者も、語るものが「高貴な器」であることを期待してはならないのです。

ライフチャーチ
大谷信道


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