デイリーディボーション 11月8日(火)

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デイリーディボーション 11月8日(火)

2022年11月8日(火)
【今日のみことば】 ローマ人への手紙 6章1-4節 1それでは、どういうことになりますか。恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか。2絶対にそんなことはありません。罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおもその中に生きていられるでしょう。3それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。4私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。
【ポイント】 ① 「罪を赦された罪人」として生きる喜びを知る。 クリスチャンが「罪を赦された罪人」であるという言葉はアメリカ時代の日本語教会牧師先生が使われていた表現です。クリスチャンの霊的な状態を正確に言い表していると思います。なぜなら、私たちは自分の罪深さを認め、イエス様が自分の身代わりとして罪の報酬である永遠の死という罰を受けてくださったこと、そこまで私たちを愛してくださっていることを知り、イエス様を愛する者となりました。神様はこの信仰によって私たちの罪を赦し、神様の子としてくださいました。しかし、それは私たちが罪を犯さない完全な人間に作り替えられたという意味ではありません。自分の罪深さは変わらないけれども、イエス様の十字架ゆえに、私たちの神様に対する愛ゆえに、私たちの罪は問わないという約束が与えられているのです。
ここで、多くのクリスチャンが悩んでしまいます。なぜなら、神様の十字架の愛を知った私たちは、罪を犯したくないという新しい感覚が与えられ、自分の罪深さを以前よりもはっきりと感じることができるようになるわけですが、やはり罪を犯してしまうからです。ここで、このままでは神様に嫌われてしまうという勘違いをしてしまうクリスチャンが多くいるのです。確かに、私たちが罪を離れ、罪を犯さない人生を歩みことは神様の御心です。しかし、問題はその動機付けです。神様に嫌われたくない、神様からの罰を受けたくないという動機付けは、律法主義への先祖返りであり、神様の御心ではありません。私たちの罪を犯さない歩みの動機付けは、神様の愛、恵み、あわれみだからです。罪を犯すたびに、「イエス様はこのような私を愛し、私のために十字架で苦しみ、死んでくださったのだな!」と、イエス様の十字架の愛に目を向けるのです。
「それでは、神様の愛と恵みを実感するために、罪を犯し続ければよいのでしょうか?」というのが、今日の聖書個所の議論です。2節ににある通り、その答えは「いいえ」です。私たちが、イエス様の十字架を覚え、自分がイエス様と共に死に、共によみがえったことを思い出せば、つまり、イエス様の愛の深さを思い出せば、神様が赦し続けてくれるから罪を犯し続けても良いなどと言う結論に達することはないのです。
ところが、「神様の恵み」と「自分の罪」の関係を正しく理解できないクリスチャンが少なくないのです。その結果、先に述べたように、律法主義的な信仰に陥ったり、反対に、自堕落な生活に戻ってしまったりという、極端な状態に陥ってしまうことがあるのです。ここまで、極端ではなくても、そのちょうど真ん中のバランスの良い位置に居続けることを学ぶ必要があるのです。それは、神様、イエス様との愛の関係を保ち続けることなのです。それが、罪を赦された罪人である私たちは、イエス様との愛の関係の中でのみ、喜びと幸せを覚えながら生きることができるのです。
ライフチャーチ 大谷信道


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