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2021年11月9日(火)
マタイの福音書 13:1-4 1その日、イエスは家を出て、湖のほとりにすわっておられた。2すると、大ぜいの群衆がみもとに集まったので、イエスは舟に移って腰をおろされた。それで群衆はみな浜に立っていた。3イエスは多くのことを、彼らにたとえで話して聞かされた。「種を蒔く人が種蒔きに出かけた。4蒔いているとき、道ばたに落ちた種があった。すると鳥が来て食べてしまった。
【ポイント】 ①「求めるもの」を変える イエス様のもとに「大勢の群衆」が集まってきます。しかし、イエス様は彼らと距離を取り、舟の上から離し始めます。おそらく、群衆が我先にとイエス様の近くに押し寄せることを回避されたのだと思われます。
なぜ、イエス様は群衆と距離を取られたのでしょうか。それは、群衆中に自分の求めていることをイエス様に実現してもらうために集まって来ている人が大勢いたことをイエス様がご存じだったからでしょう。そして、イエス様は「群衆が求めているもの」と「自分が与えようとされているもの」が違うことをご存じだったのでしょう。
現代においても、「人々が求めているもの」と「イエス様が与えようとされているもの」が食い違うことがよくあります。この点については、繰り返し学んでいますね。イエス様が私たちに与えようとされているのは「神の愛」です。現在であろうが、永遠の未来であろうが、私たちが本当の幸せ(祝福)を感じながら生きて行くために必要なのは「神の愛」「神様との愛の関係」だけなのです。それ以外の何ものも私たちを満足させ、幸せにするものは存在しないのです。
残念ながら、これほど単純で簡単なことを、日本では99%の人が知らずに生きているのです。もしかすると1%のクリスチャンの中にも、この点について無知である人がいるかもしれません。ですから、私たちクリスチャンは「神様の愛」を受け「神様との愛の関係」を築くこと以外の事柄が、何の実も結ばない、意味のないことであることを知らなくてはなりません。「ご利益(お金&健康)」「自己啓発(自分の人間的成長)」「伝統・習慣・行事の継承」「神秘体験」「知的好奇心を満たすこと」など、自分の欲求を満たしたり、自分の好みの宗教活動に加わることにどれほど熱心に取り組んだとしても、一時的には何らかの満足感が得られたとしても、そこには神様が私たちに与えようとされている、永遠に続く「本当の祝福・幸せ」はないのです。
この後の節を読み進める中で、自分が実を結ばない、的外れな信仰の歩みをしていないかをしっかりと確認してみましょう。
ライフチャーチ 大谷信道