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2021年12月1日(水)
マタイの福音書 14:1-11-13 11そして、その首は盆に載せて運ばれ、少女に与えられたので、少女はそれを母親のところに持って行った。12それから、ヨハネの弟子たちがやって来て、死体を引き取って葬った。そして、イエスのところに行って報告した。13イエスはこのことを聞かれると、舟でそこを去り、自分だけで寂しい所に行かれた。すると、群衆がそれと聞いて、町々から、歩いてイエスのあとを追った。
【ポイント】 ①迫害が「福音」を鮮明にする 人間の肉的な欲求は尽きることがなく、人間は現状に満足することを知りません。例えば、大災害に遭遇し、多くの人が命を落とすような状況の中であれば、人は命があるだけで幸せを覚えるでしょう。しかし、すぐに、飲み物がないこと、食べ物ないこと、着るものがないこと、住む場所がないことなどに不満を覚え、生きている事への感謝など忘れてしまうのです。
イエス様を信じ、永遠のいのちが与えられている私たちクリスチャンにも似たようなことが起きています。神様の愛を知り、神様の愛の中で永遠を過ごす約束が与えられたときに、私たちは大きな喜びに包まれます。しかし、すぐに、現状に対する不満が心の中に湧き上がってくるのです。神様に愛されている事も、永遠のいのちが与えられていることも当たり前のようになり、喜びを感じなくなり、肉的な欲求を満たしたいという古い生き方に戻って行ってしまうのです。
私たちクリスチャンは、神様の愛、永遠のいのちで満足する生活を送っているでしょうか。あなたの人生に喜び、楽しさを与えているのは何でしょうか。経済的な豊かさでしょうか、健康でしょうか、平和(安全)でしょうか、社会的な地位・名声でしょうか。そのようなものにしがみつき、そのようなものがあるがために神様の愛に喜ぶことができないのであれば、神様がそのようなものを私たちから奪い去ることがあるかもしれません。聖書に証しされているイエス様の弟子たちの喜びは、一切そのような肉的な満足とは別物であることを覚えましょう。
私たちクリスチャンが目を覚ますために、迫害が必要であると考える人がいるかもしれません。しかし、迫害を起こして下さるように祈ることは神様の前に正しいことではないでしょう。そうであれば、私たちは、迫害が日常である世界に生きていたイエス様とその弟子たちの生き様を学び、その感覚や価値観に近づいていくことを意識的に行っていくことが重要なのではないでしょうか。ヨハネが殺害され、自分たちにも迫害を受けるのではないかという恐怖を覚える中で福音を伝え続けるイエス様と弟子たちに心を合わせてみようではありませんか。
ライフチャーチ 大谷信道