デイリーディボーション 12月16日(金)

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デイリーディボーション 12月16日(金)

2022年12月16日(金)
【今日のみことば】 ローマ人への手紙 8章4-8節 4それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。5肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。6肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。7というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。8肉にある者は神を喜ばせることができません。
①霊と肉について正しく理解する。 あくまでも個人的な意見としてお聞きください。私は、多くのクリスチャンが「霊と肉」について大きな勘違いをしているのではないかと思っています。多くのクリスチャンが「霊的」だと考えている事柄が、非常に「肉的」である場合があると思っているからです。例えば、「霊的」がストイック(禁欲的)な生き方をすることだと思い込んでいる方はいらっしゃらないでしょうか。つまり、肉欲を断つことが霊的な生き方だと考えることです。別の例は、不思議な体験、経験をすることが「霊的」であると思い込んでいる人も少なくないと思います。異言、預言、癒しなど体験の中に生きることが神様の霊に導かれる生き方だと考えることです。しかし、そのような考え方を大切にしているクリスチャンを冷静に観察していると、私の理解からすると非常に「肉的」な状況に陥っている人が少なくないのです。
まず、ストイックな生き方が霊的に見えている人は、大切な一点を見逃していると思います。それは、人間はどれほど努力したとしても、その努力や鍛錬によって罪の性質(肉の性質)を克服することができないということです。あなたが非常に霊的であると感じている模範的なクリスチャンがいたとしたら、その人はあなたが思っているほど完璧な人ではなく、常に罪の性質、肉の性質を持ったまま生きている人であるということです。それは、使徒パウロが7章22-23節で「22すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、23私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。」と正直に告白している通りなのです。
異言、預言、癒しなどの体験が「霊的」であると信じ、教えているクリスチャンたちも全く同じです。いかに異言、預言、癒しなどの賜物が与えらえているとしても、肉体を持っている限り、その体の中には罪(肉)の性質が存在しているのです。さらに、パウロの時代にコリントの教会の中に見られるように、教会の中で異言が語れる人とそうでない人の間にある種の差別が起きたり、賜物に関して競争が起きたりしていたとしたら、そこに存在している価値観は、この世の肉的な価値観と何も変わることがなくなってしまうのです。
これらの現象はキリスト教だけでなく、多くの宗教で見ることができると思います。しかし、それこそが宗教の問題なのです。表面的に「霊的」に見えたとしても、ちょっと冷静に、そして客観的に見ると、その中には生臭い肉的なものが見えてくる場合があるのです。そこで感じる荘厳さ、宗教的な雰囲気に騙されてはならないのです。私たちの教会、そして個人的な信仰の歩みが本当に神様に喜ばれる、純粋なものであるのか否かをはっきりと区別し、「霊的」の本当の意味を理解することが重要なのです。そうでなければ、キリスト教会が他の宗教と大差ないものになってしまうことでしょう。
それでは、神様の喜ばれる、本当の意味で「霊的」な歩みとはどのようなものなのでしょうか。そのヒントの1つはガラテヤ人への手紙5章にあります。「19肉の行ないは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、20偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、21ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません…….25もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。26互いにいどみ合ったり、そねみ合ったりして、虚栄に走ることのないようにしましょう。」
私たち、イエス・キリストを信じる者の使命は、自分の内にある罪の性質、肉的な部分を克服することではありません。自分と隣人の罪深さを認め、その罪深さを知りながら自分と隣人を受け入れ、愛することが使命なのです。なぜなら、キリストが私たちをそのように愛し、受け入れてくださったからです。昨日も使った表現ですが、禁欲的な生き方も、特別な体験を求める生き方も、イエス様の命令に従う、神様を愛し、隣人を愛する歩みと比べたら、宗教ごっこのようなものなのです。私たちが、本当にイエス様の御霊に従って生きるのであれば、私たちはイエス様の命令に従うように促されるはずだからです。
ライフチャーチ 大谷信道


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