デイリーディボーション 12月19日(火)

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デイリーディボーション 12月19日(火)

2023年12月19日(火)
【今日のみことば】 コリント人への手紙第一 5:3-5 3私のほうでは、からだはそこにいなくても心はそこにおり、現にそこにいるのと同じように、そのような行ないをした者を主イエスの御名によってすでにさばきました。4あなたがたが集まったときに、私も、霊においてともにおり、私たちの主イエスの権能をもって、5このような者をサタンに引き渡したのです。それは彼の肉が滅ぼされるためですが、それによって彼の霊が主{イエス}の日に救われるためです。
【ポイント】 ①パウロの厳しい言葉の理由は? その2 残念ながら多くの牧師、クリスチャンが理解していないことなのですが、聖書を読めばだれでも理解できる聖書の真理は、唯一で真の神様は「愛」そのものであり、私たち人間を愛しておられるということです。「そのようなことは理解している!」という声が聞こえてきそうですが、私たちクリスチャンは本当の意味で神は愛であるという真理を理解しているでしょうか。例えば、「適度な運動が体に良い」という医学的な知識を理解している人はたくさんいますが、それは必ずしもその人が運動を実践し健康を保っていることを意味していません。同じように、神様が愛の存在であることを理解していたとしても、それは神様の愛を受け取り、神様の愛に身を委ね、神様との愛の関係によってのみ得られる平安のうちを歩んでいることにはならないのです。
パウロは、コリント教会の中に「父の妻を妻にしている者がいる」という報告を受けていたわけですが(5:1)、それは単に倫理的な問題ではなく、神様との愛の関係の欠如の問題だと見ているのです。私たちの個人的な信仰、そして教会全体の信仰を見るときに、この視点が極めて重要なのです。というか、私たちに必要なのはこの視点のみとも言えるでしょう。つまり、繰り返し引用している某テレビCMのセリフを借りれば「そこに愛はあるのか?」という視点です。問題の根源は、この世の、または、キリスト教の倫理に反しているか否かではなく(社会や教会の規範を守っているか否か)ではないのです。「あなたは本当にキリストを愛しているのか?」というこの1点にあるのです。
ですから、パウロは、不品行を行っている者がキリストを愛する者ではないと判断したのでしょう。この世的な常識(倫理観)からも外れている行為を平気で行っている人は、たとえ「イエス・キリストを信じている(愛している)」と告白しているとしても、それは口先だけの告白であることが明らかだと判断したのだと思われます。それが3節の「主イエスの御名によってすでにさばきました。」ということばの意味なのだと思われます。パウロは不品行を続けている人の罪を裁いているのではなく、そのような人がそもそも救われていなかったということを事実として述べたのです。
それでは、私たちは不品行を行わなければ良いのでしょうか。そうではありません。良い行ないを行うにしても、それがイエス様の愛に動かされた結果でなければ、表面的に行いを変えただけになってしまいます。もちろん、それは不品行からの脱却の1歩ではあるわけですが、その歩みは、神様からの罰を受けたくないという恐怖に動かされたものではなく、神様の愛によって動かされたものであることが大切なのです。

ライフチャーチ 大谷信道


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