デイリーディボーション 12月2日(金)

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デイリーディボーション 12月2日(金)

2022年12月2日(金)
【今日のみことば】 ローマ人への手紙 7章8-13節 8しかし、罪はこの戒めによって機会を捕らえ、私のうちにあらゆるむさぼりを引き起こしました。律法がなければ、罪は死んだものです。9 私はかつて律法なしに生きていましたが、戒めが来たときに、罪が生き、私は死にました。10それで私には、いのちに導くはずのこの戒めが、かえって死に導くものであることが、わかりました。11それは、戒めによって機会を捕らえた罪が私を欺き、戒めによって私を殺したからです。12ですから、律法は聖なるものであり、戒めも聖であり、正しく、また良いものなのです。13では、この良いものが、私に死をもたらしたのでしょうか。絶対にそんなことはありません。それはむしろ、罪なのです。罪は、この良いもので私に死をもたらすことによって、罪として明らかにされ、戒めによって、極度に罪深いものとなりました。
【ポイント】 ①クリスチャンにとっての律法 私たちは、イエス様の救いがあることを知っているので、自分の罪に正直に向き合うことができます。これは、イエス様の福音が良い知らせである理由の一つです。反対に、もしイエス様の福音、罪の赦しがなければ、私たちは永遠に罪の中に生きるのか、自分の罪を見て見ぬふりをして生きるのかの二択しかないのです。前者は、信仰を持たずに自分の欲望のままに生きる生き方であり、後者は形骸化した宗教の中に生きる生き方です。イエス様はこの両方から人々を救われたのです。
特に、質(たち)が悪いのは形骸化した宗教です。イエス様・パウロの時代のユダヤ教がそうですし、同じ傾向はいつの時代のキリスト教の中にも見ることができます。ユダヤ教の問題は、表面的に律法を守ることによって罪を犯さない生き方ができていると思い込んでしまうことです。しかし、それは、神様に対しても、自分自身に対しても不誠実な態度なのです。なぜなら、パウロが指摘しているように、罪について正しく理解したとしたら、私たちは、自分の罪深さに絶望し、律法を完全に行うことなど絶対に不可能だということに気が付くはずだからです。実際に、多くのユダヤ人も、自分が救いようのない罪人であることに気が付いているはずですし、それ故にイエス・キリストの福音を信じるに至った人も多いことでしょう。
自分の罪深さを認めることは、大きな痛みを覚える行為かもしれません。罪深さを自覚したとしても、罪深い行為を止められないと感じる人も多いことでしょう。しかし、実は罪を認めてしまうことによって、私たちは自由になるのです。反対に、私たちが自分の罪深さ、自分の不完全さを正直に認めない間は、私たちはそれを隠したり、見て見ぬふりをしたり、ひそかに罪責感に苦しんだり、完全であるための努力を続けたりと、心の中には自由と平安がないのです。
ところが、罪の赦しの約束が与えられれば、私たちは恐れることなく、恥じることなく、自分の罪を認め、赦しを求めることができるのです。このプロセスに必要なのが「律法」と「福音」の組み合わせなのです。このどちらが欠けても、救いはないのです。律法によって私たちの罪深さが明らかにされ、イエス様の福音によって、私たちは救いがあることを知るのです。
ライフチャーチ 大谷信道


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