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2021年12月21日(火)
マタイの福音書 15:32-39 32イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた。「かわいそうに、この群衆はもう三日間もわたしといっしょにいて、食べる物を持っていないのです。彼らを空腹のままで帰らせたくありません。途中で動けなくなるといけないから。」33そこで弟子たちは言った。「このへんぴな所で、こんなに大ぜいの人に、十分食べさせるほどたくさんのパンが、どこから手に入るでしょう。」34すると、イエスは彼らに言われた。「どれぐらいパンがありますか。」彼らは言った。「七つです。それに、小さい魚が少しあります。」35すると、イエスは群衆に、地面にすわるように命じられた。36それから、七つのパンと魚とを取り、感謝をささげてからそれを裂き、弟子たちに与えられた。そして、弟子たちは群衆に配った。37人々はみな、食べて満腹した。そして、パン切れの余りを取り集めると、七つのかごにいっぱいあった。38食べた者は、女と子どもを除いて、男四千人であった。39それから、イエスは群衆を解散させて舟に乗り、マガダン地方に行かれた。
【ポイント】 ①イエス様のあわれみの深さを感じる 5千人の給食に続く、4千人の給食の記事です。ヨハネの福音書では、5千人の給食の後にイエスを追いかけまわす群衆に対してイエス様はこのように語られました。
ヨハネの福音書6:26-27 26イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。27なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。それこそ、人の子があなたがたに与えるものです。この人の子を父すなわち神が認証されたからです。」
イエス様はイエス様についてくる群衆の中に「自分の欲求を満たして欲しい」という不純な動機でついてくる人が含まれていたことをご存知でした。もちろん、病気の癒しなどは100%不純な動機とは言えないかもしれませんが、現代の「癒し」のミニストリーを見ても、人が集まる理由は「天の父や御子との愛の関係」ではなく、自分の病気が治ることであることは否めません。癒された人の中には、神様とのより深い愛の関係に導かれる人もいると思いますが、「しるし」を求めている人が多いのです。
仕事上の人間関係や男女の恋愛や結婚においても「金の切れ目が縁の切れ目」という現象を見ることができます。「金銭(利益)目的」が満たされている間は、一見すると非常に良好な関係が築かれているように見えます。「金銭目的」で相手に近づいている、相手が「金銭目的」で自分い近づいてきているとは思っていない(思いたくない)場合が多いのです。
しかし、それを明らかにするのが「金の切れ目」なのです。「損得抜き」の状態でも相互の友情、信頼関係が維持されていればそれは純粋な関係であることが分かるわけです。
イエス様も「しるしの切れ目が縁の切れ目」であること、多くの人がイエス様のもとを去っていくことをご存知でした。しかし、ご自分が「なくなる食物」ではなく「永遠い至る食物」を与えることができる方であることを証明するために、あえて「なくなる食物」をもって人々の欲求を満たされたのです。ただ、ここで勘違いしてはならないことは、イエス様は「仕方なく」でも「いやいや」でもなく、人々に対する真のあわれみから、人々の空腹を満たされたということです。これこそが、イエス様が神の御子である証拠でもあるのです。
私たちクリスチャンにも同じような試練が与えられる可能性があります。私たちが、イエス様がキリストであることを知るために私たちに「しるし」を見せてくださったり、必要を満たして下さることがあるのです。しかし、その関係の軸が「しるし」「必要の満たし」で終わってしまっていることはないでしょうか。自分の人生が自分の思い通りに進んでいないときに神様への信頼が低まることがないでしょうか。
満腹した者はいずれ必ず空腹になります。病気が癒された者もいずれ必ず死ぬのです。しかし、イエス様が本当に与えたのは永遠いなくならないものなのです。それは「永遠のいのち」なわけですが、別の言い方をすれば「永遠の愛の関係」です。あなたは、その価値、素晴らしさに気づき、そこに喜びと幸せを覚えているでしょうか。
ライフチャーチ 大谷信道