誰でも気軽に集える、明るく、カジュアルな雰囲気の教会です。
2020年12月23日(水)
ペテロの手紙第一 2:13-15 13人の立てたすべての制度に、主のゆえに従いなさい。それが主権者である王であっても、14また、悪を行なう者を罰し、善を行なう者をほめるように王から遣わされた総督であっても、そうしなさい。15というのは、善を行なって、愚かな人々の無知の口を封じることは、神のみこころだからです。
【ポイント】 ①何が「証し」になり、何が「伝道」につながるのかを考える 今日の個所のポイントは「主権者に従う(従わない)」ではありません。つまり、「クリスチャンは権威に従い、国の法律を守るべきだ」とか「神の御心に反した法律まで守る必要はない!」などという議論は、ペテロが本当に伝えたいことを理解する手助けにはならないということです。
ペテロのポイントは15節にはっきりと記されています。「善を行なって、愚かな人々の無知の口を封じることは、神のみこころだからです。」恐らく、ペテロは、私たちクリスチャンが、善を行い、善良な市民として認識されている限り、当局から目をつけられたり、迫害されたりすることがないと考えていたのでしょう。また、善良な市民という評判を獲得しなければ、キリストの福音を伝えることが難しくなることはすでに学びましたね。
つまり、私たちクリスチャンにとって大切なことは、どのような国、どのような時代に生きていたとしても、神様の前で「善」と思われることを行っていくことが重要だということです。それは、決して主権者、為政者に媚びたり、彼らを喜ばせる行動を選択するということではないのです。私たちクリスチャンの行動の判断の軸は、この世の主権者ではなく、神様にあるということです。
ローマ帝国においてキリスト教が国教となって経緯については様々な議論があるようです。しかし、その経緯がどのようなものであったとしても、もしクリスチャンが善良な人々であるという認識が社会の中で共有されていなければ、それは実現しなかったことでしょう。つまり、多くのクリスチャンが国教化以前の迫害に耐え、善を行うことを大切にし続けたからこそ、ローマ帝国におけるキリスト教の国教化などという、1世紀のクリスチャンの誰もが想像できなかったようなことが実現したということもできるでしょう。私たちクリスチャンが神様を信頼し、神様の御心に従って行くことによって、神様がご自分の計画を実現されるということなのです。
ライフチャーチ 大谷信道