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2021年12月8日(水)
マタイの福音書 15:1-6 1そのころ、パリサイ人や律法学者たちが、エルサレムからイエスのところに来て、言った。2「あなたのお弟子たちは、なぜ長老たちの言い伝えを犯すのですか。パンを食べるときに手を洗っていないではありませんか。」3そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「なぜ、あなたがたも、自分たちの言い伝えのために神の戒めを犯すのですか。4神は『あなたの父と母を敬え』、また『父や母をののしる者は死刑に処せられる』と言われたのです。5それなのに、あなたがたは、『だれでも、父や母に向かって、私からあなたのために差し上げられる物は、供え物になりましたと言う者は、6その物をもって父や母を尊んではならない』と言っています。こうしてあなたがたは、自分たちの言い伝えのために、神のことばを無にしてしまいました。
【ポイント】 ①問題の本質は「聖書」以外の権威を認めたことにある 今日の個所の問題は、ポイントにある通り、パリサイ人や律法学者たちが「聖書」以外の言葉に聖書のような権威を認めている点にあります。例えば、「パンを食べるときに手を洗っていない」という指摘は、聖書の律法に規定されたものではなく、2節にあり通り「長老たちの言い伝え」として教えられているものです。医学的な見地からしても、食べる前に手を洗うことがさまざまな病気を防ぐ良い方法であることは明らかです。しかし、食前の手洗いは、神様がモーセ(イスラエルの民)に与えられた律法の中に入っているわけでないのです。
また、イエス様は「長老たちの言い伝え」の中で明らかに律法と矛盾しているものがあると指摘しています。「言い伝え」によると、父や母が経済的に困っていたとしても、神殿への供え物を優先するようにと教えられているわけですが、イエス様はそれは十戒の「あなたの父と母を敬え」という戒めに反していると説明しています。
神様は今日も生きておられ、私たちの心をすべてを知っておられます。今日も、天の父として私たちを愛し、可愛がり、育て養ってくださっています。この神様との個人的な関係が抜け落ち、神様の生の声である聖書のみことばが無視された結果が、今日の個所に見ることができる「宗教」です。
私たちクリスチャンは、同じような「宗教」作りに加担してることはないでしょうか。聖書と関係の無い教え、伝統を守ることに熱心になっていることはないでしょうか。そもそも、そういうことに取り組むことがキリスト教の信仰だと思い込んでいる人はいないでしょうか。イエス様が本当に伝えたかったことを正確に理解しているでしょうか。しっかりと考えてみましょう。
ライフチャーチ 大谷信道