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2021年2月1日(月)
ペテロの手紙第二 1:17-19 17キリストが父なる神から誉れと栄光をお受けになったとき、おごそかな、栄光の神から、こういう御声がかかりました。「これはわたしの愛する子、わたしの喜ぶ者である。」18私たちは聖なる山で主イエスとともにいたので、天からかかったこの御声を、自分自身で聞いたのです。19また、私たちは、さらに確かな預言のみことばを持っています。夜明けとなって、明けの明星があなたがたの心の中に上るまでは、暗い所を照らすともしびとして、それに目を留めているとよいのです。
【ポイント】 ①イエス様の目撃者の重要性を知る ペテロの信仰の確信は、自身がイエス・キリストの目撃者であったことに起因することは言うまでもありません。ですから、イエス様の直接の目撃であるペテロは、自分が直接見聞きした以外のことが教えられていることがあったとしたら耐え難い思いをしたことでしょう。ちょっと話がそれますが、そのような意味では、パウロはイエス様の昇天前の目撃者ではなかったので、ペテロはパウロに対して当初は戸惑いを覚えたことが推察できます。しかし、この手紙の3章15-16節にはこのようにあります。「15また、私たちの主の忍耐は救いであると考えなさい。それは、私たちの愛する兄弟パウロも、その与えられた知恵に従って、あなたがたに書き送ったとおりです。16その中で、ほかのすべての手紙でもそうなのですが、このことについて語っています。その手紙の中には理解しにくいところもあります。無知な、心の定まらない人たちは、聖書の他の個所の場合もそうするのですが、それらの手紙を曲解し、自分自身に滅びを招いています。」これが何を意味しているのかと言うと、地上でのイエス様の直接の目撃者ではなかった(復活のイエス様の目撃者ではある)けれども、パウロが教えている事はペテロがイエス様から触接見聞きしたことと一切矛盾していなかったということなのです。それだけでなく16節をみるとペテロがパウロの手紙を「聖書」と同じ権威を認めている理解できるような表現が用いられていることが分かります。このように新約聖書が一つの本としてまとめられるプロセスとして、イエス様の直接の目撃者たちが誰が真実を語っているのかを厳しく吟味していたことが分かるのです。
私たちは、ペテロをはじめとする、イエス様の直接の目撃者の証言があるゆえに、新約聖書に収められている文書を「聖書(神のみことば)」として信頼することができるのです。反対に、どのように素晴らしいと思える内容の本であっても、それのベースが目撃証言でなければ、それを「聖書」と呼ばれることはなかったのです。
ライフチャーチ 大谷信道