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2023年2月15日(水)
【今日のみことば】 ローマ人への手紙 9章30-33節 30では、どういうことになりますか。義を追い求めなかった異邦人は義を得ました。すなわち、信仰による義です。31しかし、イスラエルは、義の律法を追い求めながら、その律法に到達しませんでした。32なぜでしょうか。信仰によって追い求めることをしないで、行ないによるかのように追い求めたからです。彼らは、つまずきの石につまずいたのです。33それは、こう書かれているとおりです。「見よ。わたしは、シオンに、つまずきの石、妨げの岩を置く。彼に信頼する者は、失望させられることがない。」
①ユダヤ人のプライドと苦悩を理解する パウロは自分を含むユダヤ人について3章27節でこのように語っています。「それでは、私たちの誇りはどこにあるのでしょうか。それはすでに取り除かれました。どういう原理によってでしょうか。行ないの原理によってでしょうか。そうではなく、信仰の原理によってです。」この事実を受け入れるためには、ユダヤ人はアイデンティティーを完全に変える必要があります。そして、それは人間的なプライド(誇り)を捨て去るという、心に大きな痛みを伴う行為でもあるのです。神様の前で自分の罪深さを認める際に、すべての人が同じ経験をするわけですが、私たち異邦人の場合と、自分たちは神様に選ばれた民であると信じて生きてきたユダヤ人の場合では、心に感じる痛みが違うのです。
しかし、ユダヤ人が自己のプライドを捨て去ることにどれほどの痛みを感じたとしても、「信仰による義」という真理が変わることはないのです。その理由の一つは、ユダヤ人が神様のことばと信じている旧約聖書に、はっきりと「信仰による義」が記されているからです。当時のユダヤ人の問題は、旧約聖書を神様のことばと信じると言いながら、過去の律法の教師たちの聖書解釈(言い伝え)にも、聖書と同等の権威を認めてしまっていたことにあると思います。
②キリスト教の中でも同じことが起きている これと大変良く似た現象はキリスト教でも起きています。様々な先入観(聖書解釈)を脇に置いて、まっさらな状態で聖書を読んでみると、カトリック教会、正教会、プロテスタント教会の中で、聖書に書かれていないことが行われていることにすぐに気が付くはずです。さらに問題なのは、多くのクリスチャンがそのことに違和感を覚えていないということです。まさに、1世紀のユダヤ人たちと同じような現象が、クリスチャンにも起きてしまっているのです。分かりやすい例は「幼児洗礼」でしょう。「幼児洗礼」を正当化するための聖書解釈、議論は様々あると思いますが、パウロが明確にしている「信仰による義」が真理であるとしたら、幼児洗礼はその真理を無視した行為となってしまうはずです。
なぜ、聖書に記されていない「幼児洗礼」などという行為が、ことが何百年もの間行われ続けているのでしょうか? それは、自分たちの教団、教派が培ってきた伝統・習慣・文化を誇り、そのプライドが邪魔をして、自己否定ができないからです。
ライフチャーチ 大谷 信道