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2022年2月15日(火)
マタイの福音書 13章16-20節 16すると、ひとりの人がイエスのもとに来て言った。「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをしたらよいのでしょうか。」17イエスは彼に言われた。「なぜ、良いことについて、わたしに尋ねるのですか。良い方は、ひとりだけです。もし、いのちに入りたいと思うなら、戒めを守りなさい。」18彼は「どの戒めですか」と言った。そこで、イエスは言われた。「殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽証をしてはならない。19父と母を敬え。あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」20この青年はイエスに言った。「そのようなことはみな、守っております。何がまだ欠けているのでしょうか。」21イエスは彼に言われた。「もし、あなたが完全になりたいなら、帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」22ところが、青年はこのことばを聞くと、悲しんで去って行った。この人は多くの財産を持っていたからである。
【ポイント】 ①誰も努力によっては「完全」になれない この青年は「永遠のいのちを得る方法」「神様の前に完全になる方法」についてイエス様に質問しました。その質問は、興味本位から一般的な知識を得るための質問ではありませんでした。神様の前で完全であるという自負を持っている青年は、イエス様からも「永遠のいのち」のお墨付きをもらいたかったのでしょう。つまり、青年は「あなたは完全な人です、もちろん永遠のいのちが与えられています!」というイエス様からの承認を得たかったのだと思います。
しかし、もし青年が永遠のいのちについて100%の確信を持っていれば、わざわざイエス様のところに来る必要はないでしょうから、青年は律法を完全に守っているという自負と同時に、そこはかとなく不安を覚えていたことが推察できます。後に登場する青年サウロ(パウロ)も、律法の行ないが完全であるという自負を持っていたと思われます( ガラテヤ1:14 <lonelymoonchild.in.coocan.jp/cgi-bin/biblesearch.cgi?key=1zW78IlDP9@2EaQ&word=gal:+1:14&dspnum=11&ver=3&pos=0+114> )。実は、律法には、中途半端に守っている人は自分が完全であると勘違いし、完全に守ろうと努力する人ほど、自分の不完全さが見えてくるという特徴があるのです( ガラテヤ3:23-24 <lonelymoonchild.in.coocan.jp/cgi-bin/biblesearch.cgi?key=1zW78IlDP9@2EaQ&word=gal+3:23-&dspnum=11&ver=3> )。
一見すると、イエス様の答えが「永遠のいのちを手に入れる方法」を教えているように見えますが、実際にはそうでないのです。イエス様は、人間の努力で神様の前に完全になることは出来ないことを青年に気づかせようとしているのです。この個所を読む私たちも、そのことに気づく必要があります。特に、真面目な人、能力の高い人ほど、自分の力で頑張ろうとするものです。しかし、極限まで努力を続ければ、「永遠のいのち」「神様の前での完全さ(義)」は、人間の努力ではどうにもならないことに気が付くこともあるのです。
青年は「悲しんで去って行った」とあります。つまり、自分の努力では永遠のいのちを手に入れることができないことに気づいたのです。ですから、イエス様は、この青年を真の信仰の出発点に導かれたのです。弟子たちはイエス様の対応に理不尽さを覚えたように見えます。この個所を読んでイエス様に冷たさを感じる人もいることでしょう。しかし、事実はそうではないのです。イエス様のことばによって青年は「永遠のいのち」へと一気に近づいたのです。
ライフチャーチ 大谷信道