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2021年2月16日(火)
ペテロの手紙第二 3:14-15 14そういうわけで、愛する人たち。このようなことを待ち望んでいるあなたがたですから、しみも傷もない者として、平安をもって御前に出られるように、励みなさい。15また、私たちの主の忍耐は救いであると考えなさい。それは、私たちの愛する兄弟パウロも、その与えられた知恵に従って、あなたがたに書き送ったとおりです。
【ポイント】 ①「救い」と「さばき」について多角的に考える 「死後のさばき」と聞いて、日本人は初めに思い浮かべるのは間違いなく「閻魔」でしょう。ヒンドゥー教の死者の国の王である「ヤマ」が仏教に取り入れられ、「閻魔天」となり、地獄の主とされたようです。日本では地蔵菩薩と同一視されているそうです。ですから、閻魔についての教えは仏教伝来のプロセスの中で仏教の中に入り込み、日本でもヒンドゥー教の教えとは全く別物の閻魔像が形成されていったようです。言うまでもなく、ブッダの教えではありません。
このように、ある意味、空想上の物語に過ぎない「閻魔」ですが、日本人の霊性の中に深く刷り込まれてしまっているのが閻魔なのです。日本に限らず、子どもが嘘をついたり、悪いことをしないように死後の裁きの恐ろしい物語を聞かせる親は世界中にいるのではないかと思います。その結果として、クリスチャンになっても「死後のさばき」と聞くと、閻魔のような神のイメージが捨てきれない人がたくさんいるのではないでしょうか。
しかし、私たちクリスチャンは「肉体の死」も「死後のさばき」も、怖がるべきものではなく、無罪の判決が言い渡される喜びの瞬間であることを知らなくてはなりません。さらに、それは「罪がない」という、「プラスマイナスゼロ」の状態の宣言ではなく、「義」とされ「神の子」とされう約束の成就の瞬間なのです。
聖書の神様は、人に炎で焼かれる姿を見て喜ぶサディストではありません。機械的に裁判を処理してくロボットのような裁判官でもありません。神様の望みは悪い人を罰することによって正義を実現することではなく、人が自らの意志で神様の愛を受け取り、神様を愛するようになることなのです。しかし、現実として聖書の神様の愛、恵、あわれみを知らずに、または拒絶した人、つまり救いのために差し伸べられ、すでに自分の手を握ってくださっている、神様のその手を握り返さなかったひとは、その選択の通り、神様との交わりが完全に断たれた状態で永遠を過ごすのです。これは、聖書の記述からの私のイメージなのですが、その状態は真っ暗な独房の中で永遠を過ごすようなものなのでしょう。その苦しみは、想像を絶するという意味では、火で焼かれると変わらないのではないでしょうか。
ですから、神様を愛さない者が経験することになるさばきの悲惨さを聖書から学びつつも、恐怖からではなく、神様との愛の関係の中で過ごす永遠の素晴らしさを知ることによって動かされ、キリストを信じる者へと導かれているのです。
ヨハネの福音書 3章17節 「神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。john 3:18御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。」
ヨハネの福音書 12章46-48節 46わたしは光として世に来ました。わたしを信じる者が、だれもやみの中にとどまることのないためです。47だれかが、わたしの言うことを聞いてそれを守らなくても、わたしはその人をさばきません。わたしは世をさばくために来たのではなく、世を救うために来たからです。48わたしを拒み、わたしの言うことを受け入れない者には、その人をさばくものがあります。わたしが話したことばが、終わりの日にその人をさばくのです。
ライフチャーチ 大谷信道