デイリーディボーション 2月17日(土)

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デイリーディボーション 2月17日(土)

2018年2月17日(土)

【通読】
ローマ人への手紙 7:21-23
21そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです。22すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、23私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。

【ポイント】
①神様に対する正直さが純粋な信仰の鍵
使徒パウロも、他のユダヤ人達(特にパリサイ人は律法学者)も全く同じ律法を知っているのに、なぜパウロはこのように大きな葛藤、苦しみを覚えているのでしょうか。実は、この疑問こそがイエス・キリストの福音の意味、必要性を知る鍵なのではないかと思います。

端的に言えば、パウロは正直だったのです。自分が律法の要求に100%応えられていない事実を隠さなかったのです。他の多くのユダヤ人(律法学者、パリサイ人)は、心の奥底では自分の罪深さを認識しながら、それを認めず、または隠し、自分がきちんと律法に従って生きているふりをしていたのです。というよりも、律法を守っているふりをせざるを得なかったのでしょう。実際には誰一人として完全に律法を全うできていないわけですから、宗教システムとしてのユダヤ教が成立しないことになってしまうからです。

②神様に対する正直さが、健全な教会(教団)、健全な家族の鍵
教会の牧師であれば誰でも、水面下で分裂、分派、争いなどが存在しながら、表向きはそのようなものが全く無いかのように振る舞っている教会、教団が少なからず存在することを知っています。同じように、クリスチャンホームであっても、実際に起きている夫婦や親子の問題を隠したり、家の外では全く問題がないかのように振る舞っている家庭もあることでしょう。

しかし、ここでの問題は、様々な問題が存在していることではありません。聖書の時代のユダヤ人たちが自分たちの罪の問題を正直に認めず、隠していたり、問題が全く無いかのように平気で振る舞えてしまうことなのです。罪深い私たちが集まれば、様々な衝突が起きてしまうことがあるものです。しかし、臭いものに蓋するような方法では問題の解決どころか、救い主を与えてくださった神様を侮り、神様を欺くことになってしまうことを知らなくてはなりません。

神様に前に自分たちの問題点、罪深さ正直に認めない限り、罪の結果として起きている様々な問題の根本的な解決はないのです。パウロがイエス様の福音に真剣に耳を傾け、救いを求めたのは、彼が自分の不完全さについて正直だったからだということを覚えておきましょう。


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