デイリーディボーション 2月17日(金)

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デイリーディボーション 2月17日(金)

2023年2月17日(金)
【今日のみことば】 ローマ人への手紙 9章30-33節 1 兄弟たち。私が心の望みとし、また彼らのために神に願い求めているのは、彼らの救われることです。2 私は、彼らが神に対して熱心であることをあかしします。しかし、その熱心は知識に基づくものではありません。3 というのは、彼らは神の義を知らず、自分自身の義を立てようとして、神の義に従わなかったからです。4 キリストが律法を終わらせられたので、信じる人はみな義と認められるのです。
①私たちの「神様に対する熱心」は正しいものなのか? 多くのユダヤ人は、自分たちが神様の御心から離れていしまっていることに気が付きませんでした。その理由は1節ににある通り「彼らが神に対して熱心である」ことです。自分たちは神様の御心に従うことに熱心であると思い込んでいたために、まさか自分が不信仰に陥っているなどとは思いもしなかったのでしょう。しかし、彼らが熱心に取り組んでいたのは「自分自身の義を立てること」だったのです。
これは、1世紀のユダヤ人だけの問題ではありません。過去、そして現在のクリスチャンも同じ間違いを犯してしまっているのです。イエス様のみことば(命令)とは別のことに熱心に取り組み、その行いに充実感を覚えている人がいるのではないでしょか。教会の行事予定に熱心に取り組むクリスチャン、教団・教派の活動などに熱心に取り組むクリスチャン、教会外の集会に熱心に参加するクリスチャンなど、自分は熱心なクリスチャンであるという自負を持っているけれども、一番大切なイエス様のみことばに聞き、従うことが疎かになっているクリスチャンが少なくないのです。
ユダヤ人のケースは救いに関わる大問題であって、私たちクリスチャンの問題とは本質的に違うものだと反論する方もいるかもしれません。しかし、本当にそうなのでしょうか。そうではありません。問題の本質は同じであり、その深刻さも同じなのです。聖書の「信仰」とは「神様に対する愛」です。ユダヤ人は神様との愛の関係によってではなく、自分の努力によって義を立てようとしました。もし、クリスチャンである私たちが、自分たちの作り上げた仕事に対して熱心であったとしたら、信仰の歩みの中で神様との愛の関係が欠落してしまっているという点においては、パウロが問題を指摘している1世紀のユダヤ人と何ら変わらない状態に陥ってしまっていることにならないでしょうか。
1世紀のユダヤ人やクリスチャンが、「あなたは神を愛しますか?」と質問されれば、多くのユダヤ人は「はい、熱心に律法を守っていますから!」と答え、多くのクリスチャンは「はい、熱心に教会生活を送っていますから!」と答えるのではないかと思います。ここに、大きな勘違いがあることに気が付く必要があるのです。私たちが本当に神様を愛するのであれば、神様の御心を真剣に求め、そのみことばに従い「神様を愛すること」と「隣人を愛すること」に熱心に取り組んでいるはずなのです。宗教熱心と神様を愛することへの熱心さは必ずしも同じではないのです。
ライフチャーチ 大谷 信道


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