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2022年2月18日(金)
マタイの福音書 13章26-30節 26イエスは彼らをじっと見て言われた。「それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできます。」27そのとき、ペテロはイエスに答えて言った。「ご覧ください。私たちは、何もかも捨てて、あなたに従ってまいりました。私たちは何がいただけるでしょうか。」28そこで、イエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに告げます。世が改まって人の子がその栄光の座に着く時、わたしに従って来たあなたがたも十二の座に着いて、イスラエルの十二の部族をさばくのです。29また、わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、{妻、}子、あるいは畑を捨てた者はすべて、その幾倍もを受け、また永遠のいのちを受け継ぎます。30ただ、先の者があとになり、あとの者が先になることが多いのです。
【ポイント】 ①骨抜き(イエス抜き)の福音に注意する 直前の「『24まことに、あなたがたにもう一度、告げます。金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。』弟子たちは、これを聞くと、たいへん驚いて言った。『それでは、だれが救われることができるのでしょう。』」という弟子たちの質問に対する答えが26節の「それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできます。」
この会話から分かることは、「人間は自分の力で救い(永遠のいのち)を得ることができない」ということです。この点にさらにメスを入れるのであれば、「イエス様を信じれば救われる(永遠のいのちを得ることができる)」という多くのプロテスタントクリスチャンが使う表現も、もし、それが救いを手にするための手段・方法として語られていたとしたら、それは完全に間違った教えになるのです。
神様との関係以外で考えれば、非常に簡単です。富を手に入れたい人がいるとします。その人には親が資産家である異性の友達がいます。もし、その人が財産(遺産)を手に入れるためにその友人に近づき、関係を深め、愛を告白しプロポーズしたとします。その人の愛の告白は一見すると大変純粋なものに見えるかもしれませんが、真の目的が親の財産であったとしたら、誰でもその愛は極めて不純なものであると判断することでしょう。その事実が発覚すれば、この結婚は破談になり、その人は財産を手に入れることは出来ないのです。
しかし、最初は財産目的で友人に近づいたけれども、その友人の素晴らしさに気づき、その人を心から愛したいと思ったとします。さらに、その人との愛の関係があれば、親の遺産など全く必要ないと思うようになることがあるでしょう。そのような愛の関係が築かれれば、結婚へと進んで行くことでしょう。そして、結果としては、将来遺産を手に入れることになるわけです。
救いや、永遠のいのちについても全く同じことが言えるのです。「永遠のいのち」「救い」を手に入れる手段・方法としてイエス様に近づいても、それらを手に入れることは出来ないのです。しかし、その後にイエス様の愛に触れ、イエス様を愛することが自分にとって一番大切だと確信した人、つまりイエス様との純粋な愛の関係を築いた人は「永遠いのち」「救い」が与えられるのです。
それが「それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできます。」というイエス様のことばが指していることなのです。が示唆することなのです。人間が何らかの方法や手段によって「永遠のいのち」「救い」を手に入れることは出来ないのです。そして、「永遠のいのち」「救い」は私たちの人生の目的でも、ゴールでもないのです。ただ、キリストの愛を知り、神様を愛することを人生の目的とした者が、その結果として「永遠のいのち」「救い」に導き入れられるのです。
ライフチャーチ 大谷信道