デイリーディボーション 2月19日(火)

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デイリーディボーション 2月19日(火)

2019年2月19日(火)
ガラテヤ人への手紙 2:19-20 19しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。20私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。
【ポイント】 ①「律法の役割」を正しく理解する パウロは、先の3章24節で律法の役割について非常に分かり易く説明していますので、ちょっと見てみましょう。「24こうして、律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。私たちが信仰によって義と認められるためなのです。」
律法は決して不必要なものではありません。律法を読めば、神様の正しさ、神様の聖さ、神様のイスラエルの民にたいする御心をはっきりと知ることができます。律法がなければ、私たちは神様の前で何が正しいのか、何が間違っているのかを知ることができなかったはずです。
しかし、律法にはさらに重要な役割があったのです。それは、私たち人間は一人の例外もなく、自分の行いによって神様の前で正しい者(義)とされることはなく、すべての人間が罪の中に死んでいくべき存在であることを明らかにするという役割です。さらに、律法には、律法によって罪の中で死んでいくことを宣告された人々が、自分の力ではなく、神様の救い、赦しを求めるように導くという役割があります。これらの律法の役割をパウロは「養育係」と呼んでいるのです。
今日の箇所で、パウロは自身の体験を分かち合っています。パウロは律法を完全に行うという試みが絶対に不可能であるということを体験し、自分が罪の中に滅びていくしかない存在であることに気づきました。そこで、イエス様に救いを求めたわけですが、その救いは「死を免れる」ものではなく、「キリストと共に死に、キリストと共に復活する」という体験だったのです。つまり、私たちの信仰とは、こたつでみかんを食べながらテレビに映っているイエス様の十字架に感激するようなものでは無いということです。私たちが与えられている信仰とは、イエス様の十字架を見る時に、そこで死んだのはイエス様だけでなく、自分自身でもあると信じることなのです。
あなたは、イエス様の十字架の傍観者(解説者)になっていることはありませんか? 私たちが、イエス様の十字架の当事者になるためには、イエス様と一緒に十字架で死んだ自分の姿を見る必要があるのです。
ライフチャーチ 大谷信道


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