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2022年2月22日(火)
マタイの福音書 20章17-19節 17さて、イエスは、エルサレムに上ろうとしておられたが、十二弟子だけを呼んで、道々彼らに話された。18「さあ、これから、わたしたちはエルサレムに向かって行きます。人の子は、祭司長、律法学者たちに引き渡されるのです。彼らは人の子を死刑に定めます。19そして、あざけり、むち打ち、十字架につけるため、異邦人に引き渡します。しかし、人の子は三日目によみがえります。」
【ポイント】 ①「盲目的な信仰」に注意する イエス様は16章21節、17章12節でご自分の死の予告をされています。16章21節にある通り、イエス様が繰り返しご自分の苦難、死、復活について弟子たちに話していた思われます。
しかし、明日のヤコブ、ヨハネとその母、そして他の弟子たちの様子を見ると、彼らがイエス様のことばを真剣に聞いていないことは明らかです。恐らく「イエス様が政治的、軍事的な王として新しいイスラエルを治められる」という、勝手な思い込みが盲目的な信仰となり、イエス様のみことばについて深く考えることをブロックしてしまっていたのでしょう。つまり、「イエス様の御心」が実現することではなく「自分の夢(意志)が実現」することを信じていたわけです。
この現象はキリスト教界にも見ることができます。最近のライフチャーチでのメッセージのテーマのようになってしまっていますが、私たちの勝手な思い込みが、いつの間にか「信仰」になってしまうという現象は、現代のクリスチャンである私たちにとって全く他人事ではないのです。この「信仰の落とし穴」に落ちないように注意することが、イエス様の弟子である私たちの大事な務めの1つであると思っています。
例えば、ヨハネの福音書8章で、姦淫の罪を犯した女性をモーセの律法に即して石打の刑にするべきだと主張する律法学者やパリサイ人に対して、イエス様は。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」と言われました。私たちクリスチャン一人ひとりが、そしてクリスチャンが多く住む国において、このイエス様の教えが実践されているでしょうか。もしかすると、「保守的なクリスチャン」「聖書的なクリスチャン」と自負している人ほど、他者を厳しくさばいてしまっていることはないでしょうか。
聖書は弟子たちの失敗を隠すことなく伝えてくれています。そこには、「後世のクリスチャンが同じ過ちを犯すことがないように」という、イエス様と弟子たちの祈りが込められていると思っています。自分の信仰は聖書的で正統的であると思っている人は、そこに「勝手な思い込み」「盲信」が含まれている可能性がないか、正直に自信を見つめ直してみましょう。
ライフチャーチ 大谷信道