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2021年2月23日(火)
ヨハネの手紙第一 1:3-4 3私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。4私たちがこれらのことを書き送るのは、私たちの喜びが全きものとなるためです。
①神様が与えようとしている喜びを受ける 過去2週間にわたり、ライフチャーチの礼拝メッセージでは「人間の尽きない欲求」の問題について触れてきました。世の中では、多くの人が「癒し」「慰め」「人間的成長」「霊的成長」「健康」「経済的な祝福」など求め、「宗教」に助けを求めるという現象を見ることができます。一見すると、どれも悪い欲求ではなく、この世で生きる誰でもが望んでいる事のように見えます。しかし、その姿を客観的に観察すると、結局のところ、多くの人が自分の欲求が満たされることに喜びを感じ、その喜びを得るために「神」と呼ばれるものを利用していることになっていることに気が付くのです。私たちクリスチャンにとっても全く他人事ではありません。一見純粋そうに見えるクリスチャンの「祈り」「願い」も、それを願っている個人の心の奥を探っていけば、その動機付け(本当の願い)が「自分の欲求を満たすこと」なのか「神様の御心が行われること」なのかを見ることができるはずです。
神様(聖書)は、欲求が満たされる喜びは一時的なものであり、決して人間を本当に幸せにするものではないことをはっきりと教えています。自分たちの欲求を満たすために偶像にすがったイスラエルの民に対して神様は「 13わたしの民は二つの悪を行なった。湧き水の泉であるわたしを捨てて、多くの水ためを、水をためることのできない、こわれた水ためを、自分たちのために掘ったのだ。」(エレミヤ2:13)イエス様はサマリヤの女性との会話の中でこのように教えられています「13イエスは答えて言われた。『この水を飲む者はだれでも、また渇きます。14しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。』」
これらの聖書の個所をしっかりと理解すれば、今日のヨハネのことばも実感を持って理解できると思います。つまり、自分の渇き(欲求)を満たすことに一生懸命な人は、一時的に喉をうるおせても、必ずまた渇き(欲求)を覚えるということなのです(麻薬の効果にも似ていますね)。自分の欲求を満たすという負のスパイラルを捨て、天の父、イエス様との愛の関係(交わり)を求める人は、渇くことのない、喜びの中に招き入れられるのです。
残念なことに、自分の欲求が満たされるために神様を信じている人や、自分の願いが実現するために熱心に祈ったりしている人には、このメッセージがなかなか届かないのです。
あなたは「御父および御子イエス・キリストとの交わり」によって満足を得ていますか?まだ何か足りない者のように生きていることはありませんか?
ライフチャーチ 大谷信道