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2021年2月24日(水)
ヨハネの手紙第一 1:5-6 5神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。これが、私たちがキリストから聞いて、あなたがたに伝える知らせです。6もし私たちが、神と交わりがあると言っていながら、しかもやみの中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであって、真理を行なってはいません。
【ポイント】 ①光の中を歩む 神様の光に照らされるときに、私たちの内に何が起こるのでしょうか。それは、私たちの心の内のすべてが明らかにされるということです。良いことが明らかにされることを嫌がる人はいないでしょう。しかし、自分の罪についてすべて明らかにされることに恐れや、拒否感を覚える人はたくさんいることでしょう。
私たちが神様の前に自分の罪深さを隠すことは、心に闇を作ることになります。実際のところ、神様の前で自分の罪を隠すことなど絶対にできないのですが(ヘブル4:13)、それでも、自分の罪を隠そうとする行為は、神様に心を閉じ、神様を拒絶していることなるのです。光の中を歩く第一歩は、神様の光に照らし出された自分の罪深さを直視し、その姿を神様の前にさらけ出すことなのです。大変勇気がいる行為ですが、これ以上何も隠すことがないという状態は、私たちの心に大きな平安をもたらすのです。
神様の前に自分の罪をさらけ出し、自分の罪深さを認める際に、落とし穴がいくつかあります。その一つは、自分では全く気付いていない罪があるということです。自分では神様の光に隅々まで照らし出されていると思っていても、実は見落としている闇が残っている可能性があるのです。ヨハネは6節でその点について自分の心にメスを入れるように迫っているのです。
例えば、ライフチャーチでの礼拝でこの2週間学んできた、人間の尽きない欲求について考えることは、とても良いヒントになると思います。欠かさず礼拝に参加し、熱心に祈り、十分一以上の献金を捧げ、忠実に教会の奉仕を行っている人がいたとしても、その動機付けが「神様から特別な者として認められたい」「誰よりも霊的なクリスチャンでありたい」「忠実さと引き換えに経済的な豊かさを手に入れたい」という、自己実現の欲求を満たすことになっている可能性もあるということです。牧師たちも同じです。伝道や教会形成に熱心であっても、心の中では、他の牧師との競争に勝ちたい、有名になりたい、成功者として認められたいなどと言う自己実現(夢の実現)のために頑張っている人もいることでしょうし、そのような誘惑と戦っている牧師も少なからずいることでしょう。
大切なことは、意識している罪の性質だけでなく、意識していない罪の性質も自分の心の中に存在していることを正直に認めることなのです。罪の性質を克服することができていないとしても、自分の罪深さを認識していることは、神様の光に照らし出された自分の姿を見ていることになるわけですから、光の中を歩んでいることになるのです。克服できないほどの罪深さに直面するからこそ、イエス様の救い、罪の赦しの必要を知ることになるのです。
最後に、神様の光によって自分の心の内の罪が照らし出されたときに、パウロの心がどのように変えられて行ったのかを見てみましょう。
ローマ人への手紙7章18-25節 18私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。19私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています。20もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行なっているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。21そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです。22すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、23私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。24私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。25私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。
ライフチャーチ 大谷信道