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2019年2月25日(月)
ガラテヤ人への手紙 3:6-7 6アブラハムは神を信じ、それが彼の義とみなされました。それと同じことです。7ですから、信仰による人々こそアブラハムの子孫だと知りなさい。
【ポイント】 ①「信じる」の意味をを掘り下げる ローマ人への手紙10章9-10節でパウロはこのように教えています。「9なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。10人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」
残念ながらこの箇所を曲解しているクリスチャンが少なくありません。勘違いの一つは「口でイエスを主と告白し」という行為を行えば、救いが与えられると理解してしまうことです。これでは「信仰」ではなく「行い」によって義とされることになってしまいます。次の勘違いは「神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われる」という箇所の「信じる」が「理解する」と変わらない意味で理解されてしまうことです。前の「主と告白し」と組み合わせて考えると、私たちが求められている信仰とは、十字架の死から復活されたイエス様は、間違いなく自分の罪の贖い主、救い主であると信じ、イエス様を信頼し、生涯従っていく決意なのです。
パウロはアブラハムの神様への信頼し、神様への忠誠を「信仰」と呼んでいるのです。律法が与えられる前の、律法とは無関係な状態のアブラハムは、天の父に対する愛、信頼、忠実さ、つまりその信仰によって「義」とされていたということなのです。
ですから、私たちが大切にすべきなのは「律法の行い」ではなく、アブラハムの生き様に現れている「信仰」なのです。そして、この「信仰」に生きる者は、異邦人であったとしても、霊的な意味で「アブラハム」の子孫なのです。
ライフチャーチ 大谷信道