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2021年2月26日(金)
ヨハネの手紙第一 1:8 8もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。
【ポイント】 ①自分の罪深さを直視すると・・・ 最近の保守的なクリスチャン(聖書に忠実であろうとするクリスチャン)、自由主義的なクリスチャン(聖書を自由に解釈するクリスチャン)の両方に共通してみられる傾向は「罪人」と言われることを非常に嫌がるということです。保守的なクリスチャンは自分の内から罪を排除することに熱心ですし、自由主義的なクリスチャンは、聖書の戒めを解釈し(変え)、だれも罪犯していないかのような雰囲気を作ろうとしています。
例えばジェンダーの問題については、保守的なクリスチャンは「同性愛は罪だ!」と言って、同性愛者が悔い改めて、本来の姿に立ち返ることが神様の御心であるというような理解をしていると思います。自由主義的なクリスチャンは、この世的なジェンダーの多様性・平等は人間の権利であるというようなこの世的な価値観、哲学を聖書よりも優先させることが多いかと思います。そして、この両者の議論は平行線をたどり、一致を見ないのです。
しかし、私はその糸口は、先に述べた「罪人と呼ばれることを嫌がる」という両者に共通する、両者に内在するプライドが砕かれることによって解決すると信じています。つまり、保守的なクリスチャンは「同性愛者が罪を犯している」ことを非難したり、さばいたりする前に「異性愛者である自分も罪を犯している」という現実を謙虚に認めることが重要です。なぜならイエス様はマタイ5章28節で「しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。」と教えられているからです。また、ヨハネ8章7節で、姦淫の罪で捕まえられた女性を、律法に従って石打にするべきだと騒いでいた人々に対して「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」とも教えられています。繰り返しになりますが、聖書は同性愛が罪であることをはっきりと教えていますが、同じ聖書によれば、異性愛者も同じ罪を犯していることになるということです。私たちクリスチャンも、クリスチャンになった後に数えきれないほどの罪を犯しているという事実を謙虚に受け入れる時に、ジェンダーについての考え方、取り組み方が全く違ってくるのではないでしょうか。
自由主義的なクリスチャンにいても同じです。すべての人間が平等であると考えるのであれば、すべての人間が罪人であるという点において平等であるという観点を受け入れる謙虚さが必要なのではないでしょうか。
ですから、今日のヨハネのことばは、すべてのクリスチャンにとって極めて重要な語りかけであることが分かるのです。まずは、自分が罪人であることを素直に認めること、そして、罪人である自分を神様は愛してくださっていることを覚えましょう。 ライフチャーチ 大谷信道