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2022年2月4日(金)
マタイの福音書 18章28-31節 28ところが、そのしもべは、出て行くと、同じしもべ仲間で、彼から百デナリの借りのある者に出会った。彼はその人をつかまえ、首を絞めて、『借金を返せ』と言った。29彼の仲間は、ひれ伏して、『もう少し待ってくれ。そうしたら返すから』と言って頼んだ。30しかし彼は承知せず、連れて行って、借金を返すまで牢に投げ入れた。31彼の仲間たちは事の成り行きを見て、非常に悲しみ、行って、その一部始終を主人に話した。
【ポイント】 ①なぜ私たちは赦すことが求められているのか? 昨日の「主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。」というペテロの質問に対し、イエス様は借金を免除してもらったしもべの例えを用いて説明されています。
ペテロだけなく、私たちの中にも「何度まで赦すべきでしょうか。」という疑問を持っている人がいることでしょう。ペテロだけでなく、現代のクリスチャンの中にも「具体的な数値目標」を欲しがる人が多いのではないでしょうか。日本人は勤勉ですから具体的な目標が与えられると一生懸命頑張れる人が多いようです。もっと言えば、その目的が何かが分からなくても、目の前に数字を出されれば、その数字を達成するために頑張れてしまう人が多いのです。そして、数値目標じたいが目的化し、目標を達成したことに充実感や喜びを覚えるようになってしまうのです。
恐らく、この感覚が「律法主義」を作り上げてしまったのだと思います。律法の文字面を守っていれば、神様の御心を行っているという勘違いをし、気分の良さを感じたり、自分が偉い者(信心深い者)かのような感覚になってしまうのです。ペテロも「7回赦せば十分ですよね!」と、その回数をこなせば神様の前に正しい者になれるかのような感覚を持っていたことが推察できます。
それでは、イエス様の答えはどのようなものだったのでしょうか。一言でいえば「自分の赦してもらった罪の大きさを理解しなさい」というものです。借金を赦してもらったしもべの話を聞けば、だれでもが「このしもべは悪い人だ!」と理解できることでしょう。そして、「借金」を「罪」に置き換えれば、私たちが、誰から強いられてでもなく、目標達成のためでもなく、進んで兄弟を赦したくなるはずなのです。
あなたは、赦してもらった罪の大きさを本当に理解していますか?
ライフチャーチ 大谷信道