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2021年2月5日(金)
ペテロの手紙第二 2:11-17 11それに比べると、御使いたちは、勢いにも力にもまさっているにもかかわらず、主の御前に彼らをそしって訴えることはしません。12ところがこの者どもは、捕らえられ殺されるために自然に生まれついた、理性のない動物と同じで、自分が知りもしないことをそしるのです。それで動物が滅ぼされるように、彼らも滅ぼされてしまうのです。13彼らは不義の報いとして損害を受けるのです。彼らは昼のうちから飲み騒ぐことを楽しみと考えています。彼らは、しみや傷のようなもので、あなたがたといっしょに宴席に連なるときに自分たちのだましごとを楽しんでいるのです。14その目は淫行に満ちており、罪に関しては飽くことを知らず、心の定まらない者たちを誘惑し、その心は欲に目がありません。彼らはのろいの子です。15彼らは正しい道を捨ててさまよっています。不義の報酬を愛したベオルの子バラムの道に従ったのです。16しかし、バラムは自分の罪をとがめられました。ものを言うことのないろばが、人間の声でものを言い、この預言者の狂った振舞いをはばんだのです。17この人たちは、水のない泉、突風に吹き払われる霧です。彼らに用意されているものは、まっ暗なやみです。
【ポイント】 ①他人事ではないことに気づく 現代の多くのクリスチャンは、今日の個所は自分とは関係ないと感じているかもしれません。しかし、そのような感覚は全くの間違いであることを知らなくてはなりません。もちろん、完全にカルト化してしまっているような教会(牧師が教祖化している教会、現世利益の追求が福音のメッセージであるかのように教えている教会、救いに人間の行いが必要であるかのように教えている教会)の間違いに気が付く人は多いかと思います。しかし、実は本当に厄介なのは「自分は福音主義的なクリスチャンである」「自分は正統なクリスチャンである」と思い込んでいるけれども、実際にはそれが何を意味しているのかを正しく理解していない人々です。自分は聖書的で正しい信仰を持っていると信じているので、自らの信仰が本当に聖書的であるのか否かを検証することがないのです。自分は健康であると信じ切っているけれども、実は自覚症状を伴わない癌が進行してしまっている人に似ています。本当に健康な身体を維持したいと思うのであれば、健康であると思っている現状を疑い、自分が気づいていない問題があるかもしれないという謙虚な気持ちから、クリニックや人間ドックなどで検査を受けるものです。同じような気持ちから聖書を開き、自分の信仰の歩み、自分の教会の姿を聖書に照らし合わせる時に、自分や教会の歩みの中に聖書に書かれていないことがいかにたくさん入り込んでしまっているのかに気が付くはずなのです。つまり、今日の個所で語られているメッセージが決して他人事ではないことに気が付くはずなのです。
イエス様は、この現世利益的な信仰に陥ってしまった「サドカイ人」に対してではなく、完全な信仰の歩みをしていると自負していた「パリサイ人」や「律法学者」に対して「27わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは白く塗った墓のようなものです。墓はその外側は美しく見えても、内側は、死人の骨や、あらゆる汚れたものがいっぱいです。28そのように、おまえたちも外側は人に正しく見えても、内側は偽善と不法でいっぱいです。」(マタイ23:27-28)と指摘されているのです。このメッセージは、現代の「正統な信仰」「福音主義」を自負しているすべての教会とクリスチャンにも向けられているのではないでしょうか。ヨハネの福音書の中で、自分たちの信仰は正しいと思い込んでいるパリサイ人たちに対してイエス様は次にように言われました。このことばも自分に向けられたものとして、しっかりと受け止め、味わってみましょう
ヨハネの福音書9章39-41節 39そこで、イエスは言われた。「わたしはさばきのためにこの世に来ました。それは、目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。」40パリサイ人の中でイエスとともにいた人々が、このことを聞いて、イエスに言った。「私たちも盲目なのですか。」41イエスは彼らに言われた。「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、あなたがたは今、『私たちは目が見える』と言っています。あなたがたの罪は残るのです。」
ライフチャーチ 大谷信道