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2021年2月6日(土)
ペテロの手紙第二 2:18-21 18彼らは、むなしい大言壮語を吐いており、誤った生き方をしていて、ようやくそれをのがれようとしている人々を肉欲と好色によって誘惑し、19その人たちに自由を約束しながら、自分自身が滅びの奴隷なのです。人はだれかに征服されれば、その征服者の奴隷となったのです。20主であり救い主であるイエス・キリストを知ることによって世の汚れからのがれ、その後再びそれに巻き込まれて征服されるなら、そのような人たちの終わりの状態は、初めの状態よりももっと悪いものとなります。21義の道を知っていながら、自分に伝えられたその聖なる命令にそむくよりは、それを知らなかったほうが、彼らにとってよかったのです。
【ポイント】 ①他人事ではないことに気づく 昨日、「偽教師」や「異端」は、明らかにカルト化してしまったような教会だけの問題ではなく、むしろ、自分こそが正統で聖書的な信仰を持っていると自負している人こそ注意しなければならない問題であることを学びました。本日も再度ヨハネの福音書9章に記されているイエス様のことばに注目しましょう。
ヨハネの福音書9章39-41節 39そこで、イエスは言われた。「わたしはさばきのためにこの世に来ました。それは、目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。」40パリサイ人の中でイエスとともにいた人々が、このことを聞いて、イエスに言った。「私たちも盲目なのですか。」41イエスは彼らに言われた。「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、あなたがたは今、『私たちは目が見える』と言っています。あなたがたの罪は残るのです。」
パリサイ派の人々は、聖書のみことばに忠実に歩んでいるという自負を持っていました。「パリサイ人=悪者」程度の理解で止まってしまっている人が少なくないかもしれませんが、イエス様の時代、人々は「パリサイ人=聖書的な人々」として見ていました。ローマ帝国の支配者にすり寄り、世俗化してしまっサドカイ派の人々に対し、聖書を大切にするパリサイ人はその信仰のゆえに人々から尊敬を受けていたのです。実際、イエス様も彼らが教えについてこのように語っています。「2…律法学者、パリサイ人たちは、モーセの座を占めています。3ですから、彼らがあなたがたに言うことはみな、行ない、守りなさい。…」(マタイ23章)
それでは、イエス様はなぜ、パリサイ人を強く非難されたのでしょうか。それは、上のヨハネ9章にあるように、パリサイ人たちが自分たちの神様の前での不完全さを見ようとせず、神様の義について盲目状態であったにも関わらず、「私たちは目が見える」と自分たちの正しさ(信仰)が完全であると思い込んでいたからです。イエス様は、もしパリサイ人が「私たちは律法に忠実に生きていますが、依然として罪深い者なのです」という姿勢で生きていたとしたら、イエス様はパリサイ人を非難することはなかったのです。
ですから、「私は福音主義的(原理主義的)な教会に通う、聖書が間違いのない神のことばであると信じるクリスチャンである!」と、自分の聖書信仰に確信を持っていたとしても、自分の罪深さ、不完全さ、不寛容さなどに気づかず、自分たちと保守的な信仰を共有しない人々を裁いているとしたら、イエス様の時代のパリサイ人と何も変わらない行いをしていることになってしまうのです。そして、それはイエス様のみことばに不忠実で、実は非聖書的な歩みをしていることになってしまいかねないことを意味しています。
繰り返しになりますが、自分が聖書的なクリスチャンで、カルトや異端などの問題とは一切関係ない歩みをしていると思っている人ほど、気を付けなければならないということなのです。意図的に聖書に書かれていないことを教えている人々は、自分が聖書に不忠実であるという自覚を持っています。ですから、止めようと思えば止められるのです。しかし、自分が聖書に不忠実であるという自覚がない人は、いつまでも自分の間違いに気が付かないのです。大変恐ろしいことです。
ライフチャーチ 大谷信道