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2021年2月9日(火)
ペテロの手紙第二 3:3-4 3まず第一に、次のことを知っておきなさい。終わりの日に、あざける者どもがやって来てあざけり、自分たちの欲望に従って生活し、4次のように言うでしょう。「キリストの来臨の約束はどこにあるのか。父祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか。」
【ポイント】 ①「偽教師・異端」と「正統・聖書的」の線引きはどこにある? 3章に入って、ようやくペテロが問題視している「偽教師」「異端」が明らかになります。その間違った教えの1つは4節にある通り、イエス様の再臨の否定です。イエス様の再臨の否定するような偽教師たちの辿るべき末路、その罪深さ2章に記されている通りです。
しかし、ここで私たち現代のクリスチャンは気づかなければならないことがあります。それは、自分自身にとって、そして自分の教会にとって「イエス様の再臨」が日々の歩みの中でどれほど大きな「希望」になっているのかと言うことです。どれほど頻繁に「イエス様の再臨」が主日礼拝のメッセージで語られたり、聖書の学びのメイントピックとなっているのかを考えてみましょう。また、毎回の主の晩餐で「主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです」(1コリ11:26)の「主が来られる」の部分が大切にされているでしょうか。
もし、私たちにとって「再臨」が最も重要な関心事、最も大きな希望になっていないとしたら、もし私たちが心の底からイエス様の再臨を信じていないとしたら、私たちの信仰をペテロの視点からすると「異端的」だと言われるようなことになっていないでしょうか。「ゆでガエル」の例えではありませんが、私たちはイエス様の再臨が信仰の中心から徐々に外れていき、使徒たちの視点からすればすでに「異端」ともいえるような領域(カエルでいえば死の領域)に入ってしまっているのに、そのことに全く気が付かず、自分の教えられているキリスト教が聖書的であると信じ込んでいるようなことはないでしょうか。
現実には、2千年以上イエス様の再臨が起きていないという事実を知りながら、自分が地上で生きている間に起きるかもしれないという緊張感を持ち続けることは大変なことです。しかし、私たちの信仰の歩みから「イエス様の再臨に希望を置く」ことが抜けちてしまえば、それはもはや「異端」であることを聖書が教えていることは知らなくてはなりません。再臨について真剣に教えない牧師・教師がいれば、それらの人は「偽教師」と呼ばれる可能性があることを知らなくてはならないのです。
ライフチャーチ 大谷信道