デイリーディボーション 3月11日(木)

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デイリーディボーション 3月11日(木)

2021年3月11日(木)
ヨハネの手紙第一 2:18-20 18小さい者たちよ。今は終わりの時です。あなたがたが反キリストの来ることを聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現われています。それによって、今が終わりの時であることがわかります。19彼らは私たちの中から出て行きましたが、もともと私たちの仲間ではなかったのです。もし私たちの仲間であったのなら、私たちといっしょにとどまっていたことでしょう。しかし、そうなったのは、彼らがみな私たちの仲間でなかったことが明らかにされるためなのです。20あなたがたには聖なる方からのそそぎの油があるので、だれでも知識を持っています。
【ポイント】 ①「もともと私たちの仲間ではなかった」という可能性の恐ろしさを知る 救いはイエス・キリストを信じる信仰によって、恵みとして与えられます。さらに、聖書全体をみると、救いは神様の約束ですから、神様がご自分の約束を無効にすることは絶対にないということが分かります。
ただ、ここで極めて重要でありながら、多くのクリスチャンが見落としているポイントは、「救いを求める」という一見すると純粋な欲求に見える行為も、場合によっては人間的(肉的)な欲求から出ているものである可能性があるということです。例えば、死を目前にしている人に「罪の赦し」「永遠のいのち」「天国」が欲しいかどうかを聞けば、誰でもがそれらを求めることでしょう。そして、それらがもらえると聞いて涙を流して喜ぶ人もいることでしょう。しかし、その喜びは、必ずしも、その人が天の父の愛を知り、受け取り、天の父を愛する者にされたことから来る喜びとは限らないのです。どのように純粋に見えたとしても、自分の欲求、ニーズが満たされた喜びでしかない可能性があるということなのです。
「キリスト教」は救いをご利益とした「救いの宗教」ではありません。教会は「天国に行きたい人の集まり」でもありません。イエス様の教える信仰とは、天の父(キリスト)の愛を知り、天の父(キリスト)を愛することです。ですから、「天の父(キリスト)を一番愛する決心」が信仰の入り口であり、天の父(キリスト)との愛の関係が成立している状態が「救い」の本質なのです。「神様との愛の関係」「神様を一番愛する決意」が抜け落ちている「救い」「罪の赦し」「永遠のいのち」「天国」はほぼ何も意味しない、空しい宗教用語となってしまうのです。
「天の父(キリスト)を一番愛する決心」という信仰の入り口を間違ってしまっている人は、「信仰告白・罪の告白」をしようが、「バプテスマ・洗礼」を受けようが、そこには神様との愛の関係がありませんから、救いも罪の赦しも起きませんし、クリスチャンでもないのです。
マタイの福音書 10章37-39節 37わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。38自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。39自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。
ライフチャーチ 大谷信道


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