誰でも気軽に集える、明るく、カジュアルな雰囲気の教会です。
2022年3月11日(金)
マタイの福音書 21章25-27節 25ヨハネのバプテスマは、どこから来たものですか。天からですか。それとも人からですか。」すると、彼らはこう言いながら、互いに論じ合った。「もし、天から、と言えば、それならなぜ、彼を信じなかったか、と言うだろう。26しかし、もし、人から、と言えば、群衆がこわい。彼らはみな、ヨハネを預言者と認めているのだから。」27そこで、彼らはイエスに答えて、「わかりません」と言った。イエスもまた彼らにこう言われた。「わたしも、何の権威によってこれらのことをするのか、あなたがたに話すまい。
【ポイント】 ①「権威」について考える この世では「権威」を笠に着る人がたくさんいます。すぐに思いつく例としては、会社の経営者、団体役員、国会議員、警察官、会社の役員、学校の教師、親、そして牧師を含む宗教指導者などでしょうか。具体的な特徴は「偉そうにする」「威張る」というものです。別の見方をすれば、偉くなりたい、威張りたい人にとっては、何らかの権威を手に入れたいと考えるわけです。
「権威」を振りかざす人のもう一つの特徴は「中身がない人間」「実力のない人間」というものです。仕事における自分の知識や経験豊かな人、人間性が豊かな人、はっきりとした使命に生きている人は、人間が作り出した権威(肩書)などを気にする必要がありません。他人からどのように思われていようが気にならないからです。自分の人間性、経験、実力などによって人からの尊敬を得ることができないけれども、偉くなりたいと思うときに、何らかの権威や肩書があると、それに媚びへつらう人が出てくるので、自分が偉い者であると勘違いをしてしまうのでしょう。「虎の威を借る狐」と言うやつですね。
ですから「虎の威を借る狐」(ここでは神殿にいた「祭司長」「民の長老」)は、「虎の威」つまり権威が極めて重要なものですから、自分たちの権威を脅かす者を排除することに必死になるわけです。
人の作った権威や肩書によらず、イエス様の業の数々を見れば、誰が見てもイエス様が神様からの権威(神の子としての権威)を持っていることは明らかですね。
ライフチャーチ 大谷信道