誰でも気軽に集える、明るく、カジュアルな雰囲気の教会です。
2021年3月13日(土)
ヨハネの手紙第一 2:28-29 28そこで、子どもたちよ。キリストのうちにとどまっていなさい。それは、キリストが現われるとき、私たちが信頼を持ち、その来臨のときに、御前で恥じ入るということのないためです。29もしあなたがたが、神は正しい方であると知っているなら、義を行なう者がみな神から生まれたこともわかるはずです。
【ポイント】 ①「キリストのうちにとどまる」とは? 「とどまる」ということばを聞くと、ヨハネ15章の「ぶどうの木のたとえ」を思い出すのではないでしょうか。実際、15章では「とどまる」ということばが9回も使われています。それでは、今日の個所、そしてヨハネ15節の「とどまる」とは具体的に何を指しているのでしょうか。「イエス様を信じること?」ぐらいの理解では、28節の「キリストのうちにとどまっていなさい」という命令は、何も意味していないのと同じになってしまいます。
ヨハネ15章7節には「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。」と記されています。後半の「あなたがたのためにそれがかなえられます。」という部分ばかりに興味関心が向き、「わたしのことばがあなたがたにとどまるなら」という最も重要な命令に従うことが疎かになっていることはないでしょうか。イエス様にとどまるとは、イエス様のみことば(戒め)を守ることを第一とする生き方であることが分かります。
また、9節でイエス様は「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。」と命じられています。ここから、イエス様にとどまるとは、イエス様の愛を受け、イエス様を愛することであることが分かります。イエス様を愛するという具体的な生き方は、マタイ10章にも記されています。「37わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。38自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。」
そして、10節をみると、「イエス様の戒めを守ること」と「イエス様を愛すること」は、車の両輪であり、どちらかが抜け落ちても「イエス様にとどまる」ことにはならないことが分かります「10 もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。」
さらに、12節の「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。」という箇所から、「イエス様の戒め」とは「互いに愛し合うこと」だということが分かります。そうすると、結局のところ、イエス様にとどまり、豊かな実を結ぶためには「イエス様(天の父)を愛すること」と「互いに愛し合う」というイエス様の命令に従って行くことだと分かります。
最後にイエス様は13節で、私たちがイエス様の戒めに従うための理由を示されました。「13人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」つまり、私たちは「天国に入る義務」や「救いの条件」としてイエス様の戒めを守るのではなく、自分を「友」と呼び、自分のために進んでいのちを犠牲にしてくれたイエス様が大好きだから、強制されてではなく、自らイエス様の戒めを守りたいと思うようになっているということです。
「天国には行きたいけれど、イエス様の戒めを守るのは嫌です」というクリスチャンがいたとしたら、それでは「イエス様にとどまる」ことにはなっていませんし、そもそも、そこには「信仰」も「救い」もない状態のままであることに気が付かなければならないのです。
ライフチャーチ 大谷信道