デイリーディボーション 3月14日(火)

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デイリーディボーション 3月14日(火)

2023年3月14日(火)
【今日のみことば】 ローマ人への手紙 10章13-15節 13「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」のです。14しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。15遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう。次のように書かれているとおりです。「良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう。」
①「救われるための方法を知りたい」という間違い しばらく中断しておりましたが、本日からディボーションを再開いたします。
この世の多くの人は、合格のため、上達のため、成功のためなどの「方法」を知ることに熱心です。確かに「方法」とは一般化、または体系化された知識ですから、非常に分かりやすく人に伝えることができるものです。成功のための「方法」があると聞いた人は、その「方法」を学べば、自分も同じような成功を収めることができると期待してしまうわけです。
信仰においても、「方法」を教える人、「方法」を求める人がたくさんいます。事実、新興宗教の多くは、その方法で人々を魅了し、信者を獲得しようとしています。残念ながら、キリスト教界においても、同じようなアプローチをしている教会・牧師は少なくないのです。そして、今日の「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」という箇所は、救いを得るための方法、神様に問題を解決してもらうための「方法」として教えられる例の一つです。
しかし、私たちは、信仰における何らかの「方法」があるという感覚は、実は極めて不健全なものであることを知らなくてはなりません。なぜなら、何らかの「方法」によって救いや、祝福を受けることができるとすれば、それは、私たちが「方法」によって神様の思いを操作していることになるからです。その方法が「主を呼び求める」とか「熱心に祈り求める」など、表面的には「信仰深い行為」に見えるため、この間違いに気が付かない人が多いのだと思いますが、冷静に分析すれば、私たちが神様を操っていることになるのです。
このような勘違いの理由は、私たちの持っている神様のイメージ(理解)が間違っていることにあります。神様はすべてを知っていらっしゃる方なので、人間の表面的な「方法(行い)」によって騙されたり、誘導されるような方ではありません。口で「主よ!」と叫んでも、叫ばなくても、その人が心の底から主の愛、恵み、赦しを求めているどうかをご存じなのです。そもそも、「信仰による義」について繰り返し教えているパウロが、救いのための「方法」などを論じるはずがないのです。
大切なことは、「主の御名を呼び求める」という箇所は、救いのための「方法」を教えているのではないということです。むしろ、その逆で、「律法の行い」という複雑な方法や手続きによって人が救われるのではなく、人間が神様に心を向け、信頼し、人間に助けを求めるような思いで、神様に救いを求めるだけで良いということなのです。ライフチャーチの日曜日の礼拝でも繰り返し分かち合っていますが、イエス・キリストが明らかにされた真の神様は、多くの人が想像しているよりも、ずっと「性能の良い神様」なのです。例えば、スマートフォンなどの電子機器の本人確認のために、昔は「パスワード」を打つという手続き、ボタンに指を載せて「指紋認証」を行う必要がありました。しかし、現在は電子機器に顔を向けるだけで本人確認をしてくれる「顔認識」も可能になりました。より人間と人間の関わりに近い、自然な形で電子機器を使えるようになったということでもあります。聖書に記されている真の神様は、初めから最高性能(無限の性能?)を持っている方なので、対話をするために特別な手続き(律法の行ない)や作業(儀式)、パスワード(呪文)などは必要ないわけです。パウロの13節のポイントはそこにあるのです。
ライフチャーチ 大谷 信道


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