デイリーディボーション 3月18日(水)

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デイリーディボーション 3月18日(水)

2020年3月18日(水)
テモテへの手紙 第一 2:7-8 7そのあかしのために、私は宣伝者また使徒に任じられ――私は真実を言っており、うそは言いません――信仰と真理を異邦人に教える教師とされました。8ですから、私は願うのです。男は、怒ったり言い争ったりすることなく、どこででもきよい手を上げて祈るようにしなさい。
【ポイント】 ①男女差別でも戒律でもない 今日以降の箇所は、大きな論争の原因になっているところです。「聖書は男尊女卑の思想を教えている」という批判する人もいれば、「ここにある男女のあり方が神様の想像の秩序である」と言い切る人もいます。これらの議論は、論争が進めば進むほど両者の隔たりは大きくなるような性質のものです。
しかし、パウロは直前にどのように教えていたでしょうか。「5この命令は、きよい心と正しい良心と偽りのない信仰とから出て来る愛を、目標としています。6ある人たちはこの目当てを見失い、わき道にそれて無益な議論に走り、7律法の教師でありたいと望みながら、自分の言っていることも、また強く主張していることについても理解していません。」いかなる議論も「愛を目標」としていなければ、全く無意味なものになってしまうことを忘れてはなりません。
特に、男女のあり方については、いわゆる「原理主義・ファンダメンタル」と呼ばれる立場をとるクリスチャンは、ここでのパウロのことばを「間違いのない神のことば」としてとらえ実践しようとします。例えば、私が卒業した神学校の学長もこの立場をとっていましたので、12節の「私は、女が教えたり男を支配したりすることを許しません。ただ、静かにしていなさい。」という教えに従い、牧会者養成コース(Master of Divinity)を女性が履修できない規則へと変更してしまいました(妻はこの学長就任前に牧会者養成コースに入っていましたので無事にこの学位を取得し卒業できました)。そして、残念ながら多くの女性教員が居づらさを感じ、別の学校へと移っていきました。
しかし、問題はそれで「愛の実」を結んだのかということです。もしかすると、パウロが見ている本当の問題は「女性が男性を教えること」自体ではなく、男性を教えている特定の女性が教会の秩序を乱し、相互愛の取り組みを阻害していたことである可能性もあるのです。つまり、本当の意味で、聖書を文脈に沿って理解するのであれば、パウロの1章の教えと総合して考えなければならないと思うのです。
もし、パウロが問題としている女性が。とても良いリーダーシップを発揮し、福音を正確に宣べ伝え、無意味な議論をせず、キリストにある愛の一致に向かい苦心している指導者だったとしたら、パウロが2章のようなメッセージをテモテに送る必要はなかったはずなのです。
私たちは既成の議論、立場(原理主義、保守、自由主義)などを越えて、本当の意味で「聖書的であること」とはどのようなものであるのかを考えることが大切なのです。「自分は聖書の一字一句を神のことばだと信じている!」と言いながら、自分の家庭、自分の教会で愛の実が結んでいないとしたら、その人の宣言も信仰も全く聖書的でないということになるのです。
ライフチャーチ 大谷信道


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