デイリーディボーション 3月19日(火)

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デイリーディボーション 3月19日(火)

2019年3月19日(火)
ガラテヤ人への手紙 5:1-2 1キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。2よく聞いてください。このパウロがあなたがたに言います。もし、あなたがたが割礼を受けるなら、キリストは、あなたがたにとって、何の益もないのです。
【ポイント】 ①罪の自覚のないところに福音なし ガラテヤの教会にユダヤ主義が入り込んでしまった理由、また、クリスチャンが律法主義に陥ってしまう理由の一つは、自分の罪の奴隷状態の自覚の甘さであると思います。自分の罪深さについての認識が甘い人は、「自分は行いによって完全になることができる」「自分は行いにおいて他の人よりも優れている」という妄想を抱いてしまうのです。しかし、そのような妄想は、自分自身、そして神様に対しての偽りであること、極めて不誠実な状態であること知らなくてはなりません。なぜなら、私たちが律法の行いにおいて、神様の前で義と認められることは絶対にあり得ないからです。
パウロはそうではありませんでした。多くのユダヤ人(特にパリサイ人)が「自分は神様の前に正しく歩むことができている」と勘違いをしたり、できているふりをしている中で、パウロは神様の前で律法を100%守ることは絶対に不可能であるという確信に達したのです。そして、その状態を「律法の奴隷」「律法のくびきを負う」と表現しているのです。そのようなパウロにとってみれば、キリストの福音に律法の遵守を加えようとするユダヤ主義者たちは、嘘つき、詐欺師以外の何者でもなかったのです。
さらに、パウロはユダヤ主義的な福音の、論理的な矛盾について指摘しています。誰でもが分かる非常に簡単なことです。もし、人が律法の行いによって義とされる可能性があるのであれば、イエス様の十字架は全く無意味で、不必要な行為であったと結論付けなければなりません。「神様の義を得るための律法の遵守」と「罪の贖いのためのキリストの十字架」は絶対に共存不可能なものなのです。残念なことに、ガラテヤ教会の人々はユダヤ主義の教えの自己矛盾に気づくことができなかったのです。しかし、それは律法主義的な教えが入り込んでしまっている現代の一部のキリスト教会も同じなのです。
ライフチャーチ 大谷信道


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