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2021年3月22日(月)
ヨハネの手紙第一 3:16 16キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。
【ポイント】 ①自分のためにいのちを捨てた方の愛を知る 救い主が自分のためにいのちを捨てられることが当然になっている人はいないでしょうか。例えば兵士が国のためにいのちを捨てることが当然だと考えられているように、「救い主」と呼ばれる方が、自身の使命(なすべきこと)としていのちを捨てることが当たり前だと感じている人はいないでしょうか。または、「自分は救われる権利がある」というような感覚になっている人はいないでしょうか。いずれにしても、自分の救いが当たり前になってしまっていることは、クリスチャンにとって危機的な状況であることを知らなくてはなりません。
ここで、ルカの福音書17章12-18節を見てみましょう。 12ある村に入ると、十人のツァラアトに冒された人がイエスに出会った。彼らは遠く離れた所に立って、13声を張り上げて、「イエスさま、先生。どうぞあわれんでください」と言った。14イエスはこれを見て言われた。「行きなさい。そして自分を祭司に見せなさい。」彼らは行く途中できよめられた。15そのうちのひとりは、自分のいやされたことがわかると、大声で神をほめたたえながら引き返して来て、16イエスの足もとにひれ伏して感謝した。彼はサマリヤ人であった。17そこでイエスは言われた。「十人きよめられたのではないか。九人はどこにいるのか。18神をあがめるために戻って来た者は、この外国人のほかには、だれもいないのか。」
癒しを経験した10人、その出来事を喜んだことでしょう。しかし、その喜びがイエス様への感謝に変わり、イエス様との個人的な関係を大切にした人は、異邦人(サマリヤ人)の一人でした。私たちクリスチャンの信仰はどうでしょうか。自分の望みが叶ったことを喜んでいるのか、神様の愛を知り、神様との愛の関係が実現したことに喜んでいるでしょうか。このサマリヤ人のように、喜びの自然な反応として、キリストを賛美し、礼拝しているでしょうか。
さらに、自分を愛し、いのちを捨ててくださった方を愛し、その命令に従うこと、つまり「互いに愛し合うこと」が義務感ではなく、喜びとなっているでしょうか。この1点を確認するだけで、私たちのキリストへの愛が真実なものであるか否かを確認することができるのです。
ライフチャーチ 大谷信道