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2019年3月23日(土)
ガラテヤ人への手紙 5:13-17 13兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。14律法の全体は、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という一語をもって全うされるのです。15もし互いにかみ合ったり、食い合ったりしているなら、お互いの間で滅ぼされてしまいます。気をつけなさい。
【ポイント】 ①真理に従わない例 昨日は、「聖霊のバプテスマ」を例に挙げて、聖書に記されている内容と明らかに違う教えをしている教団について学びました。そして、その理由が「異言」の賜物が与えられている人が本来プレゼントとして与えられている賜物を誇ってしまうことにあるのではないかという個人的な考察を述べました。イスラエルの民が、神様の一方的な選びのよって立てられたのに自分たちが特別な民であると勘違いしてしまったのと似ていますね。神様の恵みの信仰の中に、ある種の「差別」が入り込んでしまったと言うこともできるでしょう。
それでは、バプテスト派はどうなのでしょうか。バプテストも例外ではありません。バプテスト派はカトリック教会の「幼児洗礼」が聖書的でないと理解し、「信仰者のバプテスマ」を大切にしてきました。つまり、罪の自覚、イエス・キリストを主と信じ、従うという決意に導かれた者、つまり個人の自覚的な信仰を伴うバプテスマが聖書的なバプテスマと理解してきたわけです。
さらにバプテスト諸派はカトリック教会などの「滴礼」に対し「浸礼」こそが、バプテスマの正しい様式であると教えました。聖書の記述、キリスト教以前のユダヤ教徒のバプテスマなどを見ても、彼らが水槽や川で全身を浸していたことは明らかです。そこで、バプテスト派の中には、その教会のメンバーになりたい人で幼児洗礼を受けている人、滴礼を受けた人に対し、浸礼を入会の条件としている教会が多くあります。
しかし、よく考えれば、「幼児洗礼・信仰者のバプテスマ」の問題で一番大切なことは「バプテスマ」の様式ではなく、「個人の自覚的な信仰の有無」であったはずです。ですから、最近ではバプテスマの様式は二次的な問題であると理解し、「浸礼」を他教会からの入会の条件としないバプテスト教会が増えてきたようです。ライフチャーチのこの立場をとっています。そもそも、自分から「滴礼」「浸礼」を選ぶ人はまれで、自分が導かれた教会のバプテスマの様式に従っただけなのです。
さらに大切なことは、今日のみことばです。割礼の有無、異言の有無、浸礼の有無などで、教会が二分されてしまうようなことは、イエス様の御心では決してないのです。私たちの救いは、神様の一方的なあわれみと恵みによるものであることを忘れると、自分の信仰を誇る者となってしまうのです。
ライフチャーチ 大谷信道