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2021年3月25日(木)
ヨハネの手紙第一 3:23-24 23神の命令とは、私たちが御子イエス・キリストの御名を信じ、キリストが命じられたとおりに、私たちが互いに愛し合うことです。24神の命令を守る者は神のうちにおり、神もまたその人のうちにおられます。神が私たちのうちにおられるということは、神が私たちに与えてくださった御霊によって知るのです。
【ポイント】 ①神の命令を守る者は神のうちにいる 「互いに愛し合いなさい」というキリストの命令ほど、気楽に破られている戒めはありません。世界のクリスチャン全員が真剣にこの戒めを守ったとしたら、世界は今と全く違う状況になっているはずです。戦争はおろか、経済格差も、差別も、環境破壊も起きていないでしょう。しかし、私たちが気にするべきは「社会問題」だけではありません。キリストの命令に忠実に従っていたとしたら、世界中のクリスチャン家庭、教会も全く違う状況になっていることでしょう。
繰り返し学んでいますが、私たちクリスチャンの問題は「イエス様の戒めをまあまあ守っている」という、愛についての中途半端、生ぬるい取り組みです。この状況は、意図的に相手と敵対したり、愛することを拒否している人よりも、ずっと深刻なのです。悪意を持って愛さない人は、それをやめることができます。しかし、自分の愛が中途半端であることに気づいていない人は、自分の生き方を改めたり、変えたりすることがないのです。
今日のみことばを聞いて、家族、隣人、主にある兄弟姉妹に対する態度、関わり方を変えてみようと思わない人は要注意です。それは、倫理的な問題があるというようなことではありません。単純に、イエス様に不従順であるからです。あなたが、イエス様を「主」と呼ぶのであれば、私たちはイエス様の命令に忠実でありたいと思うはずだからです。
私たちが問われているのは、クリスチャンらしい振る舞いでも、宗教熱心になることでもありません。私たちが問われているのは、キリストへの従順さ、忠実さであり、それは「信仰」そのものでもあるのです。イエス様に忠実でありたいという思いから、家族、主にある兄弟姉妹を愛することに真剣に取り組んでいる人は、自分の信仰について確信(平安)を持つことができます。反対に、イエス様の命令に不忠実な人、つまり愛することにいい加減な人は、信仰の有無を問われていることを忘れてはなりません。
マタイの福音書 7章21-23節 21わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者が入るのです。22その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』23しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』
今日の個所から「天におられるわたしの父のみこころを行なう者」とは「互いに愛し合うことに熱心い取り組む者」であることが分かりますね。
ライフチャーチ 大谷信道