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2023年3月28日(火)
【今日のみことば】 ローマ人への手紙 11章17-20節 17もしも、枝の中のあるものが折られて、野生種のオリーブであるあなたがその枝に混じってつがれ、そしてオリーブの根の豊かな養分をともに受けているのだとしたら、18あなたはその枝に対して誇ってはいけません。誇ったとしても、あなたが根をささえているのではなく、根があなたをささえているのです。19枝が折られたのは、私がつぎ合わされるためだ、とあなたは言うでしょう。20そのとおりです。彼らは不信仰によって折られ、あなたは信仰によって立っています。高ぶらないで、かえって恐れなさい。
①私たちは「接ぎ木された枝」 パウロは地中海に面した地域独特の例えを用いています。1世紀のパレスチナでは栽培用のオリーブが既に存在していたことが分かります。栽培しているオリーブの木の枝で古くなり実の付き方が悪いものがあると、その枝を切り落とし、別の木から取った若い枝を継ぎ合わせ、より多くの収穫を期待するわけです。
パウロは、イエス様を信じようとしない、または形骸化した信仰に陥ってしまったユダヤ人を古くなって実をつけなくなった枝に例え、異邦人が接ぎ木された若い枝に例えています。しかし、ここで大切なのは、接ぎ木された若い枝である異邦人が、ユダヤ人よりも優れたものであるというわけではないということです。接がれた枝も、もともとある枝も、木の幹から水分や栄養をもらっていることに変わりはないのです。
さらに、重要なポイントは、枝と台木をつなぎ合わせているのは、神様の恵みと、接がれた者の信仰であるということです。オリーブ栽培の場合は、古くなって実をつけない枝は切られ、焼かれるだけなのですが、信仰の場合は、一度折られてしまっても、再び信仰に導かれる者は、再び接ぎ合わせられるのです。大切なことは、神様と個人的に愛の関係が築かれていることなのです。ヨハネ15章のぶどうの木の例えからも分かりますが、大切なのは神様につながっていることなのです。そして、繰り返しになりますが、神様と私たちをつなげているのは「信仰」なのです。そして「信仰」とは、神様と人間の双方が「つながりたい」と願うときにのみ実現するものであり、神様の人間の双方向の愛によって実現している「愛の関係」なのです。この関係は、儀式によっても、善行によっても、勉強によっても実現しないのです。
ライフチャーチ 大谷 信道