デイリーディボーション 3月30日(金)

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デイリーディボーション 3月30日(金)

2018年3月30日(金)

【通読】
ローマ人への手紙 11:7-10
7では、どうなるのでしょう。イスラエルは追い求めていたものを獲得できませんでした。選ばれた者は獲得しましたが、他の者は、かたくなにされたのです。8こう書かれているとおりです。「神は、彼らに鈍い心と見えない目と聞こえない耳を与えられた。今日に至るまで。」9ダビデもこう言います。「彼らの食卓は、彼らにとってわなとなり、網となり、つまずきとなり、報いとなれ。10その目はくらんで見えなくなり、その背はいつまでもかがんでおれ。」

【ポイント】
①真理のみことば(聖書)に聞く
イスラエルの民の問題は、神様が明らかにされている真理ではなく、自分たちの願いや欲望を優先させたことです。律法主義は一見すると聖書のみことばを大切にする行為に見えますが、行き着く先は「裁き合い」でした。イエス様は「裁き合い」について大変厳しく戒められていますが(例:マタイ7章、ルカ6章)、その背景にある本質的な問題は律法主義という、神様の真理、御心から離れた教えにあったのです。

ですから、パウロは自分勝手に教えるようなことは一切せず、すべて聖書のみことばから丁寧に教えています。残念ながら、イスラエルの民の中にはイエス様の福音に対して心を閉ざし、心をかたくなにする人が大勢いました。反対に、当時の宗教指導者たちの教え、伝統、習慣、自分の思い込みをが正しいものであると確信していたのです。しかし、その確信は聖書のみことばではなく、「人からの教え」「言い伝え」を根拠ししたものだったのです。もし、彼らが、聖書のみことば、真理にしっかりと向き合えば、イエス様の福音を素直に聞くことができたはずなのです。

この問題は今日も変わることがありません。聖書のみことばを自分なりに解釈したり、人の解釈を無批判に受け入れてしまうと、イエス様の時代のユダヤ人と同じ間違いを犯すことになってしまいます。ですから、私たち教会、牧師は聖書に書かれていることばの本来の意味、著者の意図(神様の意図)が何であるのかを、聖書自体から知っていくという地道な営みを続ける責任が与えられているのです。

「2みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。3というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、4真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。」(2テモテ4:2-4)

ライフチャーチ
大谷信道


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