デイリーディボーション 3月5日(木)

誰でも気軽に集える、明るく、カジュアルな雰囲気の教会です。

デイリーディボーション 3月5日(木)

2020年3月5日(木)
テモテへの手紙 第一 1:8-10 8しかし私たちは知っています。律法は、もし次のことを知っていて正しく用いるならば、良いものです。9すなわち、律法は、正しい人のためにあるのではなく、律法を無視する不従順な者、不敬虔な罪人、汚らわしい俗物、父や母を殺す者、人を殺す者、10不品行な者、男色をする者、人を誘拐する者、うそをつく者、偽証をする者などのため、またそのほか健全な教えにそむく事のためにあるのです。
【ポイント】 ①目標は「愛」その2 昨日の「6ある人たちはこの目当てを見失い、わき道にそれて無益な議論に走り、7律法の教師でありたいと望みながら、自分の言っていることも、また強く主張していることについても理解していません。」という箇所を思い出しましょう。
エペソの教会の中に「ユダヤ教の律法学者」のような雰囲気を醸し出しながら、イエス様の福音と調和しない旧約聖書の勝手な解釈をするクリスチャンがいたのだと推察できます。教会全体が認めた監督(牧師)や執事なのか、または現代の教会学校の教師のような者であったのかは不明ですが、恐らく教会のリーダーであったと思われます。なぜなら、教会の全くの部外者が教会の中に入ってきて「教師」のような振る舞いをすることは難しいからです。
もしかすると、この「律法の教師でありたいと望む」人々は熱心に教える者だったかもしれません。彼らなりには「教会のため」と思いながら、教えていたのかもしれません。しかし、彼らの熱心さの目標は「愛」ではなかったし、実際に彼らの働きによって「愛の実」も結んでいなかったのでしょう。ここが問題なのです。たとえ、その人の心の中に、争い、分裂、分派を起こそうという「悪意」が100%なかったとしても、「愛」というゴールに向かっていなければ、それは主の御心にかなった歩みとはならないということを知らなくてはなりません。
大切なのは、ただ「熱心であること」ではありません。主に与えられた「愛」というゴールに向かって熱心に進むことなのです。
ライフチャーチ 大谷信道


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