デイリーディボーション 3月5日(火)

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デイリーディボーション 3月5日(火)

2019年3月5日(火)
ガラテヤ人への手紙 3:21-22 21とすると、律法は神の約束に反するのでしょうか。絶対にそんなことはありません。もしも、与えられた律法がいのちを与えることのできるものであったなら、義は確かに律法によるものだったでしょう。22しかし聖書は、逆に、すべての人を罪の下に閉じ込めました。それは約束が、イエス・キリストに対する信仰によって、信じる人々に与えられるためです。
【ポイント】 ①「律法」の役割を知る ーその2ー 恐らく、一世紀のユダヤ人、その後のすべての時代のユダヤ教徒も、パウロの律法の説明に反発を覚えることでしょう。21節の「律法は神の約束に反するのでしょうか。絶対にそんなことはありません。」ということばに反発を覚える人はいないと思いますが、問題は22節の「しかし聖書は、逆に、すべての人を罪の下に閉じ込めました。それは約束が、イエス・キリストに対する信仰によって、信じる人々に与えられるためです。」という部分は絶対に納得してもらえないことでしょう。
しかし、そこにユダヤ教徒(律法の行いによる義を信じている人々)の決定的な問題があるのです。パウロも誰よりも厳格なユダヤ教徒でした。しかし、パウロは律法の行いを徹底的に実践した結果、人間の努力によって律法を完全に行うことは絶対に不可能であるという結論に達したのです。パウロは自分の結論に絶対的な確信を持っていました。なぜなら、パウロが神様の前に正直だったからです。絶対的な正しさ(義)をお持ちの神様の前では、人間は律法の行いによる義を完成させることは絶対に不可能であると確信したのです。敢えて「絶対」ということばを繰り返し使いましたが、律法の行いによる義が不可能であることは、誰でもが検証可能な絶対的な真理なのです。例えて言うのであれば、100メートルの高さのビルから飛び降りて命を落とすことがない人が「絶対」にいないのと同じです。
ですから、律法の行いによる義が可能であると考えている人は、自分の本心を偽っているか、神様を侮っているのか、またはその両方なのではないでしょうか。「律法はすべての人を罪の下に閉じ込める」というパウロの説明は、人が自分に対して、そして神様に対して正直になれば、誰でもが気づくことができる真実なのです。そして、この真実に気づいた人は、神様に助けと救いを求めるのです。パウロの教える「信仰による義」は、神学的、哲学的思想でも、宗教的な詭弁でもありません。パウロは自分の罪の深刻さを正直に認め、神様に救っていただく以外に解決策がないこと、そしてイエス・キリストが神様から与えられた唯一の救いであることに気づいただけなのです。
ライフチャーチ 大谷信道


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