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2021年3月5日(金)
ヨハネの手紙第一 2:9-10 9光の中にいると言いながら、兄弟を憎んでいる者は、今もなお、やみの中にいるのです。10兄弟を愛する者は、光の中にとどまり、つまずくことがありません。
【ポイント】 ①「神の命令」を実践していますか? 「光の中にいるといいながら」という表現は、「神様を信じているといいながら」「イエス・キリストを愛しているといいながら」「神様に愛されていながら」「信仰による救いを神様からいただいていながら」などと言い換えることができると思います。イエス様を信じ、愛していながら、そのイエス様の命令を実践すること、完全に実践できなくても、真剣に取り組み続けることに怠惰であったとしたら、「イエス様を愛する」という告白は非常に空しいものになりますし、場合によっては「信仰がない」と判断されることもあるでしょう。
それでは、「神の命令」をどのように実践していけばよいのでしょうか。残念ながら、多くのクリスチャンがこの点について勘違いをしているようです。なぜなら、多くの教会において、分裂、分派、対立、争いが絶えないからです。しかし、それは今に始まったことではありません。新約聖書を読めば、使徒の時代の教会からこのような問題が起きていたことが明らかです。いろいろの教会のメンバーの方とお話をするときに、「教会は人間の集まりであるので争いがつきものなので仕方ないですね」というような言い方をする方が少なからずいらっしゃるのです。それは、「夫婦にはケンカがつきものですし、時には夫(妻)が妻(夫)に暴力をふるうこともあるでしょう」とか「親も完全な人間ではないですから、子どもへの多少の虐待は仕方ないのではないでしょうか」と言っているのと同じです。100年前の日本であれば「まあ、そうですね」と納得する人もいたかもしれません。しかし、人のあり方、夫婦のあり方、親子のあり方について深く考えられるようになった今、そのような夫婦、親子のあり方は極めて不健全であり、多くの国では犯罪と考えられるようになっているのです。同じように、きちんとイエス様のみことばを学ぶ人にとっては、教会の中の「争い、ねたみ、憤り、党派心、そしり、陰口、高ぶり、騒動」(2コリ12:20)などが、神様の前に極めて罪深い状態であり、改善のために真剣に取り組む必要があることは明白なのです。
私たちクリスチャンは、教会において「愛の実践」による「証し」を立てていくことが極めて重要です。残念ながら、自分の子どもにも、配偶者にも、友人にも「証し」ではなく「つまずき」を与える可能性があるような状態に陥ってしまっている教会が少なくないのです。先に述べたように、その状態に危機感を覚えず、「教会とはそいうもの」だと思い込んでいるクリスチャンも少なくないのです。
そのような状態では、伝道が前進することも、イエス様の福音が正しく伝わることもないのです。中には、「自分の罪の赦し、救いが保障されているのであれば、多少のことは気にせずに、教会に繋がっていれば良い」と割り切って考えている人もいるかもしれません。しかし、そのような信仰姿勢はイエス様が望まれているものではありません。教会に集まる全員が、イエス様の「互いに愛し合いなさい」という命令に忠実に従うことが求められているのです。この約束に従う決心をした者の集まりが「教会」であると言っても過言ではありません。反対に、この約束に従う決心をしていない人がどれだけ集められても、それはイエス様が教えられる「教会」とはならないのです。
ヨハネの福音書 13章34-35節 34あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。35もし互いの間に愛があるなら、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」
ライフチャーチ 大谷信道