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2021年3月6日(土)
ヨハネの手紙第一 2:11 10兄弟を愛する者は、光の中にとどまり、つまずくことがありません。11兄弟を憎む者は、やみの中におり、やみの中を歩んでいるのであって、自分がどこへ行くのか知らないのです。やみが彼の目を見えなくしたからです。
【ポイント】 ①イエス様のみことばが実践されていない現実に目を向ける 「兄弟を憎む者」の問題の本質はどこにあるのでしょうか。「憎む」の反対語が「愛する」であれば、兄弟を愛していないということになるわけですが、それだけでは問題の解決には至りません。
それでは、神様の愛についてはどうでしょうか。私たちクリスチャンは神様が私たちを愛していると教えられいるわけですが、神様の愛の具体的な行為は何だと思いますか。それは、神様が私たちの罪を赦すと決断されたことです。この決断に基づき、御子イエス・キリストを救い主としてこの世に遣わされ、すべての罪を負わせ、十字架にかけられたのです。しかし、私たちは神様の救いの計画、御業が行われる前に、神様が私たちを赦すという決意をされたという事実を見逃してはならないのです。
兄弟についても神様の赦しについて適用すればよいのです。私たちが兄弟を憎むことを止めるためには、「愛すること」を考える前に「赦すこと」を決意し、それに取り組む必要があるということです。残念ながら「愛しなさい」という命令は、この世で乱用されているので、クリスチャンの中にも聖書が教えている愛について理解が不十分な方が多いのではないかと思います。ですから、私たち牧師は「愛の実践」を奨める中で「赦し」についてもしっかりと教えるべきであると思います。相手を赦す決意無くして、相手を愛することは絶対にできないからです。
実際、クリスチャン人口が50%近くいるアメリカの状況を考えてみましょう。アメリカの教会、コミュニティーで「赦すこと」がどれだけ積極的に実践され、どれほど社会全体に影響を与えることができているでしょうか。例えば、過去から現在に至るまで続いている人種差別問題を見ても、国民の半数であるクリスチャンが「赦し」を積極的に実践していないと見られても仕方のない状況にあります。お隣の韓国はどうでしょうか。近年クリスチャン人口が減少していると言われていますが、クリスチャンは人口の30%ぐらいだと言われています。そうであれば、韓国内外から、「韓国の国民性の1つは赦しである」という評価を受けるような国になっていても不思議ではありませんが、現実はそうでないように思えます。しかし、これは、アメリカや韓国のクリスチャンの問題ではなく、日本も含む全世界のクリスチャンが「赦し」について真剣に取り組んでいない可能性を示唆しているのです。
今日の個所を読んでも、クリスチャンのランドマーク(目印)は「赦し」であることが分かります。そして、「赦し」に真剣に取り組んだ結果として「愛」という実が結ぶのです。同時に、ヨハネの指摘から、聖書の時代の教会においても「赦しの実践」がいい加減であるクリスチャンが多くいたことも分かります。
キリスト教界を嘆くのではなく、他のクリスチャンを非難するのでもなく、「赦し」についていい加減である自分の信仰にメスを入れてみましょう。「他のクリスチャンもみんなそうでした。」というような言い訳は、神様の前では通用しません。「イエス様を信じます」と告白し、自分の罪が赦されているのを喜んでいるのに、隣人を赦すことには真剣に取り組んでいないという、「やみの中を歩む」生き方がクリスチャン(自分)の中で当然となってしまっている事実を直視することから始めましょう。
ライフチャーチ 大谷信道