デイリーディボーション 3月7日(水)

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デイリーディボーション 3月7日(水)

2018年3月7日(水)

【通読】
ローマ人への手紙 8:33
33神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。34罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。

【ポイント】
①知性と想像力の両方を正しく働かせる その2
昨日の同じポイントです。パウロは、その答えが「いいえ」であることが明らかな質問(反語)を用いながら、ローマの教会の群れに熱く語り続けいます。そして、これらの熱い語りかけの答えは「いいえ、誰もいません!」ですね。そうです。自分の罪を悔い改め、イエス・キリストに罪の赦しを求め、十字架による罪赦しを受けている私たちは、もはや誰からも自分の罪について訴えられることもなければ、、誰かから罪について有罪の判決を言い渡されることもないのです。

もちろん、これは神様の前での裁きについてであり、この世の法律を犯す犯罪についてではありません。例えば、殺人を犯してしまったとしたら、裁判によって決まった刑罰を受け、遺族の方々に対する償いを続けていく必要があります。真摯に償いを続けても、遺族の方からは赦しを得ることができないかもしれません。しかし、そのような場合にあっても、私たちが神様の前に悔い改める時に、神様からの赦しを受けることはできるのです。

殺人は極端な例かもしれませんが、よく考え、想像力を働かせてみましょう。私たちは地上で生きている間に、それが犯罪でなくても、家族、友人の心を傷つけてしまうこともあるでしょう。場合によっては何年も、または一生和解のチャンスがないこともあるでしょう。それでは、どんなに悔い改めても、相手から赦しを得られなければ、私たちはずっと自分自身を裁き、責め続けなければならないのでしょうか。そうではありません。

なぜなら、究極的な裁き主である神様がいらっしゃるからです。そして、この裁き主は愛と恵みに満ちた方であるので、私たちが罪を悔い改めるときに、その罪を赦してくださる方なのです。「自分が正しい者」という意識を持っている人は「ふざけるな、そんな都合の良い話があるか!」と思うかもしれません。しかし、この赦しがなければ、私たちは常に罪責観、罪悪感に責め続けられることになってしまうのです。

ですから、私たちは絶対的な赦しが必要なのです。しかし、キリストを信じる者はその赦しを受けているのです!

ライフチャーチ
大谷信道


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