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2021年3月9日(火)
ヨハネの手紙第一 2:12-14 12子どもたちよ。私があなたがたに書き送るのは、主の御名によって、あなたがたの罪が赦されたからです。13父たちよ。私があなたがたに書き送るのは、あなたがたが、初めからおられる方を、知ったからです。若い者たちよ。私があなたがたに書き送るのは、あなたがたが悪い者に打ち勝ったからです。14小さい者たちよ。私があなたがたに書いて来たのは、あなたがたが御父を知ったからです。父たちよ。私があなたがたに書いて来たのは、あなたがたが、初めからおられる方を、知ったからです。若い者たちよ。私があなたがたに書いて来たのは、あなたがたが強い者であり、神のみことばが、あなたがたのうちにとどまり、そして、あなたがたが悪い者に打ち勝ったからです。
【ポイント】 ①霊的な領域での現実を知る 難しい書き方をしましたが、中身は極めて簡単なことです。12節の「あなたがたの罪が赦されたからです」、13節の「初めからおられる方を、知ったからです」、「あなたがたが悪い者に打ち勝ったからです」、そして14節の「あなたがたが御父を知ったからです」、「初めからおられる方を、知ったからです」、「あなたがたが強い者であり、神のみことばが、あなたがたのうちにとどまり、そして、あなたがたが悪い者に打ち勝ったからです」ということばは、私たちが神様の愛に応答し、イエス・キリストを信じ、愛する決意をしたときに、実現した「霊的な領域での現実」です。
これらのうち、一つでも自分の努力で実現できるものはありません。私たちは自分の努力で神様(天の父)を知ることはできません。罪を犯さなくなることも、罪の赦しを得ることもできません。また、自分の力で悪に打ち勝つこともできません。これらはすべて、神様から与えられ、可能にされたものなのです。まさに、この点について4章9-10節には次のように記されています。「9神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。10私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」
いつものように「放蕩息子のたとえ」を思い出してみましょう。弟と兄に共通する問題は何だったでしょうか。父から愛されていることを頭では理解していたかもしれませんが、自分が愛されている喜びを味わうことができていなかったことです。弟は家を飛び出し、生前贈与された父の財産を自分の快楽ために使い果たしたときに、初めて父の愛に気づきました。残念ながら兄は、表面的には父に忠実に生活していましたが、自分の与えられている祝福を当然かのように思い、喜びも感謝も覚えることはありませんでした。弟と愛の違いは、弟は父の愛に気づき、父の愛を味わい、その愛に動かされて父を愛し、父のもとに戻り、喜びの中から父に仕えたいという思いに帰られたことです。
ヨハネは手紙の読者に、放蕩息子(弟)が得た気づきと同じ気づきに導かれることを願っているのです。私たちは、既に神様に愛され、赦され、受け入れられ、永遠のいのちが約束されているのに、まだ何か不足しているかのような欲求不満の中に生きていることはないでしょうか。先月の宣教の中で繰り返し学んだように、神様の愛に満たされることではなく、自分の欲求不満(ニーズ)が満たされることが祝福であり、そのために神様を利用するような完全に的外れな信仰に陥っていることはないでしょうか。欲求不満状態の人々を誘惑する間違った教え(福音)にそそのかされてしまっていることはないでしょうか。
イエス・キリストを信じることによって既に与えられ、約束されている霊的な祝福に目を留めましょう。
ライフチャーチ 大谷信道