デイリーディボーション 4月10日(土)

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デイリーディボーション 4月10日(土)

2021年4月10日(土)
ヨハネの手紙第一 4:17-18 17このことによって、愛が私たちにおいても完全なものとなりました。それは私たちが、さばきの日にも大胆さを持つことができるためです。なぜなら、私たちもこの世にあってキリストと同じような者であるからです。18愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです。
【ポイント】 ①「さばきの日」に備えるために 今日の個所から「さばきの日」への備えは「互いに愛し合うこと」であることが分かります。さらに、言うまでもなく、「相互愛」へと私たちを駆り立てているのは「キリストの私たちに対する愛」であり、「私たちのキリストに対する愛」です。
私たちは「さばきの日」への「恐れ」から、キリストの愛の命令に従っているのでは決してありません。しかし、だからといって、キリストの命令に不従順であったときの結末を知らなくてよいことにはなりません。キリストの愛し、キリストの愛の命令に従わない者は、キリストを信じていないわけですから、不信仰(無信仰)の結果として、「刑罰」が伴うのです。
その時に、「私は〇〇教会で〇〇牧師からバプテスマを受けました!」「私は信仰的なクリスチャンの家庭に育ちました!」「私は欠かさずに礼拝に出席していました!」「私は毎日聖書を読んでいました!」「私は朝晩祈っていました!」「私は弟子訓練コースを修了しています!」「私は何人もの人を救いに導きました!」などという、言葉(言い訳)はほとんど意味をなさないことを覚えておきましょう。繰り返し学んでいますが「宗教熱心」であることは、救いの保証にも、さばきの日の確信の助けにもならないのです。なぜなら、イエス様は私たちに、何が一番大切な戒め(行い)であるのかを、極めて明確に教えられているからです。イエス様が見ておられるのは「私たちの愛」という一点であるということです。
反対に、イエス様の愛を受け、満たされ、その愛に動かされ、「神様を愛すること」と「隣人を愛すること」に熱心に、愚直に取り組んでいる人は、「さばきの日にも大胆さを持つことができる」のです。
そこで重要になるのが、「私は神様を愛するために(神様への愛の応答として)何ができるのか?」「私の愛すべき隣人は誰なのか?」ということを考えることです。そのような課題を持って聖書を読み返すと、神の家族であり、キリストのからだである「教会」が、愛の実践の場として神様から与えられていることに気が付くのです。宗教化されたキリスト教の中で構築された教会を大切にするという意味ではありません。生きた、キリストのからだであり、主にある兄弟姉妹の群れとしての教会を大切にし、そこで愛の実践を続けていくのです。
ライフチャーチ 大谷信道


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