デイリーディボーション 4月12日(金)

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デイリーディボーション 4月12日(金)

2019年4月12日(金)
マルコによる福音書 3:1-6 1 イエスはまた会堂に入られた。そこに片手のなえた人がいた。2彼らは、イエスが安息日にその人を直すかどうか、じっと見ていた。イエスを訴えるためであった。3イエスは手のなえたその人に「立って真ん中に出なさい」と言われた。4それから彼らに、「安息日にしてよいのは、善を行なうことなのか、それとも悪を行なうことなのか。いのちを救うことなのか、それとも殺すことなのか」と言われた。彼らは黙っていた。5イエスは怒って彼らを見回し、その心のかたくななのを嘆きながら、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。彼は手を伸ばした。するとその手が元どおりになった。6そこでパリサイ人たちは出て行って、すぐにヘロデ党の者たちといっしょになって、イエスをどのようにして葬り去ろうかと相談を始めた。
【ポイント】 ①パリサイ人を悪役として見ない 聖書を神様のことばと信じ、聖書のみことばに忠実に歩むことは、クリスチャンにとって極めて重要なことです。反対に、例えば「救い」「天国」については信じるけれども、ほかの部分を適当に扱ってしまうというような姿勢は、客観的に見れば「自分勝手な聖書の読み方」をしている事になり、自己中心を捨て、神様を中心として生きるという「信仰」とは逆の生き方になってしまいます。
しかし、聖書を神様のことばと信じるという信仰には落とし穴があることを知らなくてはなりません。それは、まさにパリサイ人たちも落ちてしまった穴なのです。聖書を神様のみことばと信じるということは、聖書に記されている命令も神様からの絶対的な命令だと信じることです。例えば「安息日」もその一つです。ユダヤ人たちは「仕事をしてはならない」という命令の具体的な適用について熱心に考え、たくさんの「細則」を作りました。それは、神様の命令に忠実に従いたいというユダヤ人の信仰姿勢の結果なのです。しかし、その結果、聖書には書かれていない数多くの細則を守っているのかを互いに監視し合ったり、互いにさばき合ったりする「律法主義」に陥ってしまったのです。
これまで繰り返し学んでいますが、現代においても聖書を神のことばと信じる熱心なクリスチャンにも、イエス様の時代のパリサイ人と大変似た現象が起きていることがあります。聖書に記されている神様の本当の願い(御心)ではなく、表面的なルールを守ることが信仰深く、聖書的なクリスチャンであると信じ込んでしまっているのです。例えば、聖書的な観点から「人工中絶」が罪であることは間違いない事実だと思います。しかし、私たちクリスチャンがするべきことは、そのような決断を下さざる得ない状況にある人、その決断を下してしまった人、つまり、罪を犯そうとしている人、罪を犯してしまった人を断罪することではなく、ケアすることなのではないでしょうか。なぜなら、私たちも神様の前では同じ罪人だからです。イエス様を信じた後も、たくさんの罪を犯し続ける者だからです。この一点を忘れてしまうと、聖書的でありたいと願っているクリスチャンが、パリサイ人と化してしまう可能性があるのです。
パリサイ人を悪役として見てしまうと、私たちクリスチャンは自らが抱えている同じ問題に気づくチャンスを失ってしまう事になりかねません。むしろ、聖書的でありたいと願っているクリスチャンこそ、パリサイ人に自分自身を重ねて見ることが重要なのです。
ライフチャーチ 大谷信道


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