誰でも気軽に集える、明るく、カジュアルな雰囲気の教会です。
2020年4月14日(火)
テモテへの手紙 第一 5:17-19 17よく指導の任に当たっている長老は、二重に尊敬を受けるにふさわしいとしなさい。みことばと教えのためにほねおっている長老は特にそうです。18聖書に「穀物をこなしている牛に、くつこを掛けてはいけない」、また「働き手が報酬を受けることは当然である」と言われているからです。19長老に対する訴えは、ふたりか三人の証人がなければ、受理してはいけません。
【ポイント】 ①長老(牧師)の責任を確認する パウロの手紙の中に見ることができる「長老(監督・牧師)」の最大の責任は「みことばの教え」です。今日の個所を見てもそうですし、3章2節では「ですから、監督はこういう人でなければなりません。すなわち、非難されるところがなく、ひとりの妻の夫であり、自分を制し、慎み深く、品位があり、よくもてなし、教える能力があり、」と、具体的な職務について求められる資質は「教える能力があり」と記されています。他にも、エペソ4章11節には「こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。」と記されています。注意深く見ると牧師は「牧師/教師(牧師=教師)」と表現されていることが分かります。
ですから、私たちクリスチャンは「牧師」に対して期待すべき働きの第一番目は「教えること」であることを知らなくてはなりません。しかし、残念なことに多くのクリスチャンは「自分の理想の牧師像」を持っていて、自分の牧師がその理想に近ければ喜び、そうでなければ不満を覚えるというようなケースが少なくないのです。確かに、「母親」「父親」「子ども」「教師」「政治家」そのほかどのような立場にある人々に対し、私たちの誰もが「理想像」を持っていますから、それをやめさせることは不可能でしょう。しかし、それぞれの人々が満たさなければならない責任の最低ラインを知らずに、自分の理想だけを基準にしして、人の優劣をつけていたとしたら、それは極めて不公平、不健全ではないでしょうか。そして、牧師についての最低ラインは「教えること」なのです。自分の牧師が、自分の理想の牧師とは全く違っていたとしても、その人が聖書のみことば、イエス・キリストの福音を正確に教えることに真摯に取り組んでいるとしたら、聖書に記されている牧師の責任の最低ラインは越えている牧師であると理解しなければならないのです。反対に、どのように人間的な魅力やほかの賜物にあふれた牧師であっても、最低限の責任である聖書、福音を正確に「教える」という働きを疎かにしているとしたら、神様に対し、教会に対し、聖書の教えに対し不誠実な者であると判断されるべきなのです。
もちろん、牧師は「教える」ことだけやってれば良いと言っているのではありません。しかし、使徒の働きの6章で執事が選出された箇所には「2そこで、十二使徒は弟子たち全員を呼び集めてこう言った。『私たちが神のことばをあと回しにして、食卓のことに仕えるのはよくありません。」とあります。つまり、この個所は、牧師の責任である「みことばを教える」という働き以外のことがらは、教会の中で分担することができる(しなさい)と教えているのです。これが、聖書的な牧師(長老・監督)と教会の姿なのです。それぞれが神様からいただいている「賜物」を用い、互いの弱さを補い合いつつ、キリストのからだとして組み合わされ、建て上げられていくことを神様は望んでおられるのです。
ライフチャーチ 大谷信道