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2020年4月15日(水)
テモテへの手紙 第一 5:20-21 20罪を犯している者をすべての人の前で責めなさい。ほかの人をも恐れさせるためです。21私は、神とキリスト・イエスと選ばれた御使いたちとの前で、あなたにおごそかに命じます。これらのことを偏見なしに守り、何事もかたよらないで行ないなさい。
【ポイント】 ①全員で主にある一致に取り組む 20節の「罪を犯している者」は、厳密には「罪を犯し続けている者」という意味です。教会の中でイエス様のみことばに反する不道徳な行いを続ける人はそれほど多くないかもしれません。明らかな悪意をもって、あからさまに悪を行う人がいたとしたら、注意を与えることは難しくありません。たとえ陰でうわさ話をしたとしても、早かれ遅かれその人の罪は皆に明らかになるものです。とはいえ、このような場合であっても「罪を犯している者をすべての人の前で責めなさい」というパウロの命令を実践することは大変難しいものです。
ですから、本人は「教会のため」「神様のため」という100%善意の中で、間違った福音、間違った教えを積極的に広めてしまっている場合は、その問題を指摘することは、困難を極めます。そこで重要になるのが、聖書が教えている「教会」の姿を、教会員全員が正確に理解していることです。間違った福音、間違った教えは、決して神様の望まれる実を結ばないからです。一言で言えば「相互愛」が実現しないのです。よって、議論の絶えない教会は、皆「良かれ」と思って議論をするのですが、いつまでも教会に「愛」や「平安」の実が結ぶことがないのです。皮肉な結果ですね。
エペソの教会に話を戻しましょう。マタイ11章でイエス様は「19人の子が来て食べたり飲んだりしていると、『あれ見よ。食いしんぼうの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ』と言います。でも、知恵の正しいことは、その行ないが証明します。」と言われています。恵みの中を歩むイエス様とその弟子たちの姿は、宗教熱心なユダヤ人の目には「食いしんぼうの大酒飲み」に見えたのでしょう。ですから、宗教熱心な人の中には、4章3節にあった「結婚することを禁じたり、食物を断つことを命じたりします。」というような、教えを教会の中に広めようとしたのでしょう。しかし、善意の奥に「さばき心」のある律法主義は、最終的には「さばき合い」に陥り、愛の実を結ぶことがないのです。一方、イエス様の愛と恵に動かされる人は、一見すると宗教熱心とは真逆に見えるかもしれませんが、必ず「愛の実」を結ぶことになるのです。
それゆえ、私たち牧師、信徒は、教会において「相互愛」「赦し合い」による「主にある一致」を阻むものがあれば、それを重大に受け止め、きちんと対処することが求められているのです。しかし、愛をもって罪を犯している人を責めることは難しいですね。ですから、パウロは、テモテだけでなく、牧師たちだけでなく、教会全体に対して「21私は、神とキリスト・イエスと選ばれた御使いたちとの前で、あなたにおごそかに命じます。これらのことを偏見なしに守り、何事もかたよらないで行ないなさい。」と語っているのです。
ライフチャーチ 大谷信道