デイリーディボーション 4月15日(金)

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デイリーディボーション 4月15日(金)

2022年4月15日(金)
マタイの福音書 23章23節 23わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは、はっか、いのんど、クミンなどの十分の一を納めているが、律法の中ではるかに重要なもの、正義とあわれみと誠実を、おろそかにしているのです。これこそしなければならないことです。ただし、十分の一もおろそかにしてはいけません。
【ポイント】 ①パリサイ人の問題点を正確に理解する その3 イエス様(天の父)の視点から見たパリサイ人の問題点の続きです。今日の個所からパリサイ人たちは、生活の中で得る金銭益な収入、自分で栽培している植物の収穫などのすべてについて細かく計算し、その十分の一を神様に捧げていたことが分かります。「はっか(ミント)、いのんど(ディル)、クミン」など、自宅の庭先に生えている香草を摘んで料理に使用したとしても、その十分の一を取り分け、神様に捧げていたのです。イエス様が最後に指摘されているように、十分の一の捧げもの(什一献金)をおおざっぱに計算することよりも、神様から与えられたもの(恵み)を数え、その十分の一をしっかりと神様にお返しすることは、非常に大切なことなのです。
しかし、イエス様は、パリサイ人の十分の捧げ方の厳密さや熱心さと比べ、彼らの「正義」「あわれみ」「誠実」がいい加減であることを指摘されました。その熱心さの違いの原因はどこにあるのでしょうか。恐らく「人の目」です。十分の一は神殿で捧げられ、捧げものの内容を祭司たちや周りにいる人たちから見られることになります。一方、イエス様の指摘された「正義」「あわれみ」「誠実」は、それを実践しても大勢の人に見られ、尊敬を集めることにはならない、地味な行いです。イエス様はパリサイ人の偽善、自己矛盾にメスを入れられたわけです。
それでは、イエス様は収入・収穫の十分の一を細かく計算し、捧げる必要はないと教えられているのでしょうか。そうではありません。イエス様は、十分の一も大切だけれど、それ以外にも神様の前に大切なことがたくさんあり、それらについても十分の一の捧げものと同じように熱心に取り組むように教えられているのです。
ここでのパリサイ人の問題の根幹は、先日も学んだとおり、神様の臨在を信じていないことだと思われます。「人の目」は気にするけれども、その場におられ人の心の奥底までご覧になることができる「神様の目」を気にしないのです。パリサイ人は律法を大切にし大変信仰熱心であったが、サドカイ人はこの世的で不信仰な人々だったというような理解がありますが、イエス様の目には両者とも不信仰に映ったのです。イエス様は、彼らの表面的な行動パターンではなく、彼らの不信仰を問題にされているのです。つまり「正義」「あわれみ」「誠実」を実践すればパリサイの問題が無くなるわけではないのです。「正義」「あわれみ」「誠実」がいい加減な状態にもかかわらず、自分は神様に義と認められていると勘違いできてしまう彼らの不信仰な心のあり方を問題にされているのです。
私たちはどうでしょうか。十分の一の捧げものを大切にしていない人は、神様への誠実さはパリサイ人以下であることになってしまうので、イエス様の「ただし、十分の一もおろそかにしてはいけません。」というみことばを大切にすることから始めてみましょう。パリサイ人のように十分の一をきちんと捧げている人は、その点については神様に従順であることは確かです。しかし、それ以外の部分でも神様の恵み・愛に対し十分に応答できているのかを考えてみましょう。
ライフチャーチ 大谷信道


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